雑記:山城の国一揆の舞台

JR上狛駅周辺は、山城国一揆の中心となった国人・狛山城守の屋敷跡とされ、現在も上狛環濠集落と呼ばれるこの地域は、周囲を堀で囲まれ中世の面影を残している。

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集落の中にある西福寺は、狛氏の菩提寺であり、境内には狛氏の墓所とされる石塔群(下の写真二枚目)がある。

その中には、戦国時代末期の当主で、織田信長に味方した狛秀綱の墓(下の写真三枚目)もあり、狛秀綱の没年である天正十二年銘を刻む陽刻五輪塔碑である。

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上狛の松尾神社は、慶長年間造立の社殿のある神社であり、また境内は山城の国一揆の会合に使われたと伝承される。

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相楽郡精華町の稲八間(いなやづま)は、山城国一揆の末期に守護・伊勢氏の支配に最後まで抵抗した国人が立てこもった稲屋妻城(下の写真一枚目が稲屋妻城跡遠景)があり、城跡に近い北稲八間墓地には戦国期の五輪塔群がある。

国一揆との関連は不明であるが、地元では一揆の国人の供養塔とされている。

五輪塔群の中にある地蔵石仏は天文六年銘があり、逆修の主旨が刻まれていることから「逆修の碑」と通称されているが、天文六年は戦国期で国一揆の時期とはかなり隔たりがあり、かつ生前供養の石塔であるから実際には国一揆とは関わりはないものと思われる。

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