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森のなかでだけ人は


2023.10.29 日 満月
 六十年に一度の洪鐘祭をみに、家から北鎌倉まで歩いた。澄んだ秋空、うつくしい日。
 梶原の道で、五十メートルくらい先で杖をついたおじいさんがころんで、顔から地面におちた。駆けよると、九十近くにみえるおじいさんは横になったまま、目を見ひらいてぴくりともうごかなかった。おじいさんは何もかも写しだしてしまいそうな透きとおった目をしていて、うまれたばかりの赤ん坊みたいにじぶんが一体どこにいてどうなっているのか、何もわかっていなさそうだった。いたい?と聞くと、いたくない、と棒読みでこたえた。目のまわりや口元がずりむけていて、マスクが真っ赤に染まっていた。すぐ近くのマンションの住人らしく、同じマンションの人が次々やってきて、意識もあるし救急車ってかんじじゃないよなあ、と言った。おじいさんのきょうだいがやってくるまで、ティッシュで顔の血をとんとん拭いた。たおれた体をそっとうごかして、道路の脇の木の板のうえに座らせて、靴をはかせた。
 ようやく北鎌倉へつくと、ちょうど祭の行列の最後尾が円覚寺へもどっていくところだった。獅子舞がいっぴきと、侍のような恰好をした人がすこしだけみえた。ものすごくたくさんの人が見物していた。六十年にいちどというと次に見るときはあの、ビー玉みたいな目のおじいさんくらいの年。

 鎌倉五山で建長汁とかやくごはんのセットをたべ、亀ケ谷坂切通を抜けて鎌倉にでた。かなさんへの手みやげはヴィーガンの焼き菓子がいいだろうなと思ってDAILY by LONG TRACK FOODSに寄ったが、バスケットに入った、白雪姫の毒りんごみたいに真っ赤なつやつやのりんごがあり吸い寄せられるようにそれを買った。紅の夢という品種で、大学生がつくっていると聞いた。
 腰越のカフェでヨーロッパ帰りの関野くんとさくらさんとお茶をして、台湾帰りのかなさんのアトリエへ行った。かなさんの製作した衣装をみんなで着て、昨夜ロスから帰ってきたばかりのロジャーさんもまじって、ハロウィンパーティみたいに写真やビデオをたくさん撮った。日が暮れて、みんなで龍口寺の竹灯籠を見にいった。短く切られた竹のなかで、かぐや姫みたいにほのかがやくろうそくがちろちろ揺れていた。平和なよるだった。この場所の、この今の平和が、いったいこの先のどこで途切れてせかいの逆側で日夜あんな戦争が起きているんだろう。かきやでかんぱち定食をたべ、みんなと別れた。


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2023.10.30 月
 昼、この秋はじめての鍋をした。だし汁に塩麹とすりごまでスープをつくり、きりたんぽを入れた。じわりと汗をかいた。たべながらYが、何年か前の誕生日プレゼントにわたしがあげた黄色いニットのカーディガンを売った、と口にした。暗い色しか着ないYにたまには明るい色を着てみてと、贈ったカーディガンだった。黙って売ってしまったのはかなしかった。午後から体調がくずれ、夜も食欲がなく、風呂には入らず九時にねた。


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2023.11.1 水
 朝さんぽにでると、おばあちゃんふたりが立ち話をしていた。ひとりのおばあちゃんが「娘が同情しないのよ」と言っているのが、通りすがりにきこえた。角をまがる前、もういちど「娘が同情しないのよ」ときこえた。おばあちゃんたちの立ち話はいつだっておもしろい。去年の秋、妙本寺の前のほそい道にたたずんでいたおばあちゃんは「それで手のひらを返されたと、そういうことなのよ」と神妙な顔つきで話していた。
 森では、ところどころに張りめぐらされた蜘蛛たちの巣が朝の光をうけて、今にも透きとおって空気のなかへ消えてしまいそうにかがやいていた。そのうちのひとつに近づいてみると、五線譜のようにきっちり編まれた糸がきらきらと音をたてながらかすかに揺れた。
 森のなかでは、すれちがう人たちとあいさつをしあう。山に登るときも、そうだ。見知らぬ人であっても、お互いが生きていることをたしかめあうような、やさしい「こんにちは」が交わされる。森をでると、その文化がなくなる。みんなそしらぬふりをして透明人間になる。人は森に包まれているときのほうがほんらいの、姿に近い気がする。
 五時をすぎると暗闇がはじまる。海辺の学校の校庭でまだ部活動をやっている子たちがいた。ふと冬の部活のあとの校庭が真っ暗で、いつもとちがう場所みたいでそわそわしていたことを思い出した。かべのない黒い海みたいだった。この暗闇のどこかに、付き合いはじめたばかりのすきな人がいる。そう思うといつもどきどきした(その人はサッカー部だった)。はっきりとみえないだけに、息づかいやほんのすこしの気配、砂ぼこりのあげかただけでその人のことがわかってしまいそうだった。


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2023.11.2 木
 大磯への買い出しがてら、ひさしぶりに高麗山へのぼった。太平洋から大山、丹沢までぐるりと一望。海も、山も街もすべてある。胸のうちがすーっとした。気温は二十五度以上。昼をちゃんとたべなかったので持ってきたドライマンゴーを噛みながら、山の小道をのぼったり、くだったりした。
 帰りの車で、眠りにおちた。ふしぎな夢をみていたけれど、空がピンク、というYの声で目が覚めて、夢の中身をわすれてしまった。海も空も、あたりがぜんぶやわらかいピンク色のグラデーションにうっすら染まっていて、春がきたみたいだった。なんか夢のなかにいるみたいだよ、とYが言ったのでこっちのほうが夢だったりして、と思った。
 夜ふっちゃんにいただいたミツロウキャンドルを、使わないから処分しようと思っていた、古道具屋でお酒も飲まないのに衝動買いした松や桜の絵柄の絵のおちょこに入れてみたらぴったりのサイズ。火をつけて、かなさんにおしえてもらった台湾の原住民のアーティストSangpuyの大地からうなるような、内臓をやさしく揺るがすような音楽をかけた。


 

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2023.11.3 金
 朝、子どもが三人、海で泳いでいた。近くのホテルの斜面の、セイタカアワダチソウがぶわっと咲いているあたりにところどころにぽつんと、お手玉みたいなふんわりした丸の、白い花をすずなりにつけた植物が生えている。シャン、シャン、と音のでるクリスマスが近づくとよく聴こえてくる銀色の楽器にも似ている。それは定規みたいにぴしっと背筋をのばし、空にむかって垂直に咲いている。


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2023.11.7 火 
 明け方、ものすごい風と雨のなか、救急車のサイレンで目が覚めた。うちのすぐ近くで停まり、となりの家の門がきききー、とあく音がした。
 昨日だったか、ニュースをつけたら三浦半島や千葉で桜が咲いたという。写真を投稿した人は、なんだかラッキーです、と言っていたが、ええ?この温暖化で、春に桜がみられなくなるかもしれないのに。
 昼、用事のついでに外で食べたくなりコトノハへ行った。長谷のあたりの、潮風を感じるのどかな雰囲気もいい。とんびが思いきり羽をひろげて、風に乗って横に横に流されて飛んでいった。
 インスタグラムをひらいて、大学時代の友人のあがったばかりの投稿にlikeをしたらすぐにメッセージがきた。コロナ禍がはじまった年、東京で共働きをしていた彼女の家に週に一度かよい、作り置きごはんをつくっていた。あのとき好きだった餅を揚げて納豆とおろしで食べるやつがたべたくなって今日つくってみたところ、と言ってくれた。あの何もかも一時停止みたいな時間のなかで、わたしは彼女の台所で、料理をしていた。毎週メニューを考え、買い物リストを送り、そろえてもらったものや冷蔵庫のストックから五、六品をつくる。子どもたちが帰ってきて、人の家でエプロンをつけて料理をしているわたしをふしぎそうな目で見ていたこともあった。餅をたべたとき、残り物だけど、と豆のスープを出してくれた。だれにも積極的に会うことのなかったあの真空みたいな年、下町にそびえたつ高層マンションの一室にある彼女の台所とダイニングテーブルですごしたほんのすこしの時間に、毎週支えられていた。

 かなやで米粉パンを一斤買い、港の人で来月録音するラジオの本を受け取って、歩いて帰る。いろんな国からこの街へあそびにきた人たちが、なごやかな顔でぞろぞろ歩いている。セブンイレブンでは東南アジアの女の子たちがたのしそうにおにぎりを買っていた。地元の人はTシャツにジーパンのラフなかっこうで、飄々とどこかを目指して歩いている。みんなここにいることをしあわせそうに思っている。ここが、わたしの住んでいる街。


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2023.11.8 水 立冬
 庭の、赤くてちいさな実をいっぱいにつける大きな木をみあげながら、昨日のみそ鍋の残りでつくったおじやをたべた。赤い実の葉っぱをよく見ると、蝉の抜け殻がおなじ枝に四つも集まって、くっついていた。庭の隅で、今年はじめて咲いたあじさいがかたちのいいドライフラワーになっている。これからさむくなろうという節目の日に、蝉も花もいのちの盛りはもうここにはないのに、なにかを超えてまだここにある。存在とはなんだろうか。その切なくてうつくしいものが、季節や時間というものなんだと昇ってきたばかりのツルツルの朝日をあびながら思ったら、生きていることがすこしうれしくなった。
 おじやだけでは足りず、米粉パンに連売の商店で安かったあみえびと植物性チーズをのせて焼いた。しらすよりちいさなあみえびは、ほんのひとつまみのせただけでびっくりするほど香ばしい匂いがする。また庭にでてパンをかじった。近くの電線にとまっている白と灰色のまざった鳩が、ぽーぽーと鳴いた。あの鳩はいつもひとりでこのあたりにいる。

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