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⑥ 義理と生活の死生観

つい先日、私の父の姉に当たる叔母が亡くなった。随分前から寝たきり状態でここ暫くはいつどうなってもおかしくない状態であるとは聞かされていたのである程度の心算はしていた。

実際にその時が訪れたと連絡を受けた際、二十年程会っていなかった事と遠方である事も相まってか、
「そうなんだ。亡くなられたのか。」と自分でも意外な程、ドライに事実だけを受け止めていた。

疎遠であり物理的な距離も離れている為に感慨も湧かないものかと最初は思っていたが、時間が経つに連れて自分が子供の頃に叔母と一緒に過ごした時の記憶を思い出して、叔母はもうこの世には居ないという事実が徐々に心へと染み渡り感傷的な気持ちが胸を締め付けた。

叔母とは私が小学校低学年だった頃、互いに阪神大震災に被災して叔母の家族が暮らしていたマンションが全壊認定され住居が無くなった為、当時私の家族が住んでいた団地にて暫くのあいだ生活を共にしていた事があった。

狭い団地でインフラが整わない状況での被災生活は辛くて困難なものではあったが大人数での暮らしや、大らかで優しい性格の叔母が居てくれたお陰で心強くもあり、今になって思い返しても被災した記憶が辛くて悲しいばかりのものでは無く、皆で一緒に居て楽しかった記憶としても心に残っている事に気付き、改めて叔母という存在が私自身を形成するのにあたり、かけがえの無いない存在であった事を想い悔やまれてならない。

そんな感じで叔母の事を想いながら感傷に浸っていると成程、死後裁かれるというのは何も神や閻魔大王に裁かれる訳ではなくて、生前に関わったこの世に残る人達の心の中でどの様に思われるかこそが裁きなのだなという思いに至る。

肉体としての存在は確かに亡くなりこそすれど、私の中に思いとして叔母の存在は生きている。私が死んだ折には是非とも誰かの思いの中で生き続けていられる様に、特に大切な人達との時間は丁寧に誠意を持って接しながら過ごしていこうと叔母の死を通して教わった次第である。


さて、そんな思いに浸り悲しんでいる中でも現実は無慈悲にも義理立てや体裁を強いてくるので興醒めである。

亡くなる数日前より叔母が危ないとの連絡は受けていたので覚悟はしていたが、私の働く職場の規定では三親等だと忌引扱いにはならず、有給休暇もコロナ罹患で使い切り残っていない為、通夜葬儀について私は当日が偶々休みであれば参列するという「行けたら行くマン」状態であった。

結果的に私が通夜葬儀に馳せ参じる事は叶わなかったのであるが、その事を伝えた私の両親からはせめて弔電は出せという批判を込めた進言と、香典の一万円は立て替えておくといった連絡が返って来て興醒めの極みであった。

私は何も通夜葬儀に参列する事を拒んでいる訳では無い。行けたら行くつもりではあるが行けなかっただけなのである。私だって出来ればクソみたいな仕事なんぞほっぽり出して馳せ参じたいのは山々であるが、私には私の生活があり家族があるのだ。

葬儀というセレモニー自体を卑下するつもりは無いが、これらを天秤に掛けたら目の前の家族と生活の方が私にとっては大事なのである。

そもそも葬儀とはこの世に残された人が故人を偲んで最後の別れを覚悟する場なのであって、誰かのメンツを立てる場では無いと私は思う。その場に行く行かないの体裁が大事な人にとっては、葬儀に顔を出さないという事が許し難い不義理な事なのであろう。それはそれで考え方の一つだ。

然りとて葬儀に関してのスタンスが違うからといって他人をまるで薄情な人でなしの様に避難するのは余りにも軽率過ぎやしないか。私は私なりに叔母を偲び悔やんでいる訳で、その気持ちまで否定している様に見えるその態度の方が故人に対しても失礼極まりないとすら思えてならない。


それもこれも全ては生活の為の仕事と冠婚葬祭の様なものを天秤に掛けて考えなくてはならない状態がクソなのである。そんな事を思う今日この頃。


叔母のご冥福をお祈りします。











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