愛を用いて交渉すること(龍退治とお姫様)

たいていの人が起こす問題行動は不安の裏返しだ。クレーマーは寂しいだけだし、マウントをとりたがるのも認められないことへの恐怖だ。一つ付け加えるならそれを助長するのは、自分が認めていない人間にどういう態度をとるか、という鏡が態度を硬化させるゆえんなので、絡まった結び目はそこにある。

つまり被害を回避するのであれば、その人の恐怖を助長しないことが寛容であり、そういう裏の心理を心得たうえで口ではなく態度に現れるのを待つ。懐広く持って甘やかすイメージで接するのがいいかもしれない。相手を決してバカにするのではなく、弱点はそこだけなのだな、と愛して聞いてやればいい。

事実とか実際にはこの世界ではどうでもよくて、コミュニケーションであるのは、恐怖vs恐怖、恐怖vs愛、愛vs愛という3つのパターンがあるだけだ。一回の交渉でも局面はいくつかあるが、損をしたくないという恐怖同士の交渉は最終的に殴る力で決まってしまう。コミュニケーションの仕方も進化している。

自分自身が恐怖に左右されていないか点検すると、他者にダメージを与えることが減っていく。ダメージを与えないということは警戒されないということ。恐怖の対象にならないということ。これは本質的に自由だ。恐怖に委縮しないこと。強大な愛を身につけるには最終的にはこの道を通る必要がある。

邪悪な竜を討ってはじめて素晴らしいお姫様が手に入る、というモチーフは、この世界の仕組みを投影したものだ。その図をつまらんと思うなら、新しい物語を流布させればいいのだが、それが魔王となるわけでいずれは勇者がやってきて討たれることまでがお約束だ。人は本質的には恐怖より愛を好むから。



恐怖vs恐怖というコミュニケーションにおいて、マキャベリは天才的だが、あれが実際に効果があるのは、相手を知り尽くしているという愛があるからだ。

ちなみに「孫子」などは読めば愛を感じる。「韓非子」もそうだ。というより、大抵の書物は愛を抱いて読めば、そこから得られることは飛躍的に増大する。

愛はまず自分を愛せることに発するが、自分が愛を発揮できる人間だという強い認識が、結局自分を愛せることへつながるから、だからこそ「相手に先にしてもらおう」という恐怖のコミュニケーションではなく、まず「相手を無償で喜ばせよう」という愛のコミュニケーションの方が自分への評価は高まる。

そして恐怖は基本的にやることはいつも一緒だが、愛は相手の本質を見抜くことでやり方を常に創造していく楽しさがある。

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