本質的に人間がやるべきこと(戒律・教養・礼儀は構造、福徳が機能)

宗教などの戒・律・令に関してはそれは構造である。その構造をなぞっていれば、徳という機能に到達し、アタラクシアやニルヴァーナを得ることもできるが、機能を意識せず構造を撫でただけではありえない。もともと機能がわかった人間が構造を立てたのだ。最初から機能から出るなら構造など何でもいい。

戒律など形だけ守るくらいなら、守らないことで何が起きるか実験していく方がよほど意味がある。言われたからやるというのは基本的に毒だ。その理由まで教えてもらわないなら、自分に選択肢がないのだ。反抗するにしても結局理由はわからないままになるので、おおかた人生が挫折して終わる。

教養とか礼儀というのもなぜこのような構造が存在するのかわからないまま身に着けても、結局効率的に機能を発揮することはあり得ない。これらはコミュニケーションの手段だ。相手を慮りながら、自分の都合を通すための有効な装置なのだ。意味と理由を相互に流通させるためのフィールドになるのだ。

はちゃめちゃな言葉遣いでも、はっきりと相手に対する思いやりや配慮を感じさせる人もいる。そういう人が自分の生きる範囲を拡大しようと思ったら、確実に客観的な知識に手を伸ばすしかない。教養も礼儀もそういう背景の中の突出した部分なだけである。最初に必須になるのは機能で構造は道具なのだ。

だから教養や礼儀がないと、そういう道理を理解している人間からは視野が狭いのだなと蔑まれてしまう。結局、自分と同類としか付き合いがないから、今だけはうまくいっているのだなと見なされてしまう。教養や礼儀が血肉になってない人間もまた、その欲の浅ましさを見抜かれてしまう。

構造は機能から創造されるし、機能は構造を背景とする。何かを学ぶ機会があるときは、機能を念頭に置いたうえで構造を知識とするのがいい。それが理解というものだ。頭のいい科学者が数式を使わないでも、精密に現象を語れるのもそういう理解を持つからだ。暗記など機械に任せておけばいい。

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