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ケテルの上に行くにはダアトを利用する(菩薩が如来になってしまう道)

別に騙されたまま生きても不幸だとは限らないが、騙そうとするのは基本的に奪う手段であることが多いから、対策は持っていた方がいいとは思う。それに騙すのは一つのストーリーだから、核になる部分があり、それが大抵は欲なのだから、騙されたときに自らの欲の在処を自覚するという経験利用法はある。

騙すとは事実や真実とは違うことを信じさせること。事実であるなら被害は少ないが、真実の領域で騙されるとかなり脱出は難しい。騙すためには信じるとか疑うとか、その領域に通じる必要がある。疑いを知らない人は信じてしまう。でも同様に信じるがわからない人も疑えない。疑うと信じるは深さは同じ。

実験とは信じることを増やすために疑うことだ。科学に限らず実験はいつでもできる。人生を常に実験だと思っていれば、疑うことと信じることは常に交互にやってきて、お互いがお互いをどんどん深めていくことに気がつく。信仰の厚さはときに間抜けさだが、本当の信仰は疑いようがないから信じている。

そういう信じるに到達してしまったら、それを信じていない人や環境で生きてみる。これが実験だ。そして信じるに値しなくなったものを発見し、それに代わる真実を見つける。疑う癖をつけることで本当に信じていいことを身に着ける。周りが信じていることが浅はかに見えてきたら、信仰は深まっている。

世界を創世できるレベルにまで、疑いと信仰を深めていく。疑いと親交のある信仰。進行し侵攻し、振興につながる。深い信仰は騙されることと無縁だ。自らの欲も深く理解に到達するので、制御の仕方も知る。制御できなくなったら、それが新たな福音だ。

ま、こういう在り方もまた疑ってみてよい。

大きく騙すためには、真実の中にほんのちょっとの嘘を垂らす。全て事実であるのに、見えない真実の部分だけ捻じ曲げる。

面白く生きたい。楽だけを味わいたい。

これは普通だ。問題なのは世界が真実でないからである。世界が真実なら、上の欲求に付け込まれたりしない。上の欲求を冗長するストーリーに騙されるほど、思慮のたりない欲を募らせるから、こんな当たり前も世界が否定してくるのだ。

足るを知る者は富む。

足るを知れば、少なくとも心は満足して生きられる。「ここまで理解できるようになるとはすばらしく充実した人生であった。もはや未練だけはない。」

最終的にはこの地点が、足るを知る、の最果てかもしれない。どうせ死ぬなら理想的に生きて、その理想の終着地で死ぬべし。死に当たっては疑いはない方がいい。

嫌なことを面白く、苦しいことを楽しく味わえるようになっていくことが、全ての人生で通用する智慧だろう、魂がそれを忘れない領域に達すれば、この世界はもう卒業だ。

そのまま経験を味わっていくのもいいが、次は味わうのではなく、創る方になる経験も楽しい。セフィロトのケテルの上の世界。菩薩が如来になる瞬間。下界はいつでも味わえるのだから(へたすれば管理者権限付きで)。

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