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小説の中の恋の香り(短編小説)

五月が大好きだ。桜は散ってしまったけれど、暖かく、爽やかで、お散歩にはうってつけの季節だから。それに、小説の中の恋の香りが、至る所で私の鼻から脳に届く。だから私は、この街をひたすらに歩きながら、この街のどこにもいないであろう運命の人に思いを馳せて、そう、ただ祈りながら、意図もなく街を歩く。

 私に恋を教えたのは、たった一つの小説で、その作品はあまりに深く私の心に浸食したから、タイトルなんかもちろん言えないんだけれど、でもその作品の題材は高校野球だった事くらいは、言ってもいいと思う。つまり、その作品は別に恋愛小説なんかじゃなくて、その上女子が読むような作品でもなくて、私はたまたま兄の本棚にあったのを借りて読んでまだ返していないだけなんだけれど、そんな作品からどうして私が恋を教わってしまったのかというと、それは事故なのだ。中学一年生の私が初めて会った、人生最大の事故だった。

 結局青春モノというのは恋愛要素を含まずにはいられなくて、それはその小説も例外ではなかったのだけれど、主人公が陸上部のマネージャーに告白したのが五月の三日だった。今書いていて、主人公よどうして野球部のマネージャーじゃなくて陸上部の方に行ってしまったんだい野球部のマネージャーが可哀想じゃないか確か野球部のマネージャーはあなたの事が好きだったぞと、その点がものすごく気になったし、それはみんなも同じだと思うけれど、そこはもう私も覚えていないのでここでは説明できないです。ごめんなさい。とにかく、主人公は告白をした。五月に、野球場の端っこの、白い小さな花が咲いてる芝生の上で。大好きですと。そして陸上部のマネージャーが言った。ありがとう。

 私は小説が好きなくせに人の気持ちを理解するのが苦手で、だからこの言葉の本当の意味だって高校生になってもう会えない親友に教わるまで分からなくて、この時は本当に、ああこういう恋がしたいなあなんて呑気に思っていたのだ。五月の日差しの中、野球ができるほど広くもない、人工芝のグラウンドの脇にあるベンチに座って。

 そこに思いっきり野球ボールが飛んできて、それは悲しく私の肩にぶつかって、ありがとう肩甲骨、私は全然痛みを感じなかったのだけれど、男子が二人走ってきて、一人はボール、もう一人は私を目指していた。私の方に来てくれた人はとても優しくて、物凄く私を心配してくれて、大丈夫? 痛くなかった? 本当にごめん、俺がキャッチミスしちゃって。キャッチボールする向き変えるわ。本当に申し訳ない、とか何とか言って、そのあまりの早口に私はうん、大丈夫、とそれだけをひたすら繰り返していたのだけれど、ようやっともう一人が転がっていったボールを拾って駆け戻ってきて、そのまま私達の前を走り去って元の場所に戻ってしまおうとしたから、私も思わずおいごめんなさいくらい言ったらどうなのよという言葉を喉まで出してしまったのだけれど、その人は振り返って手を振りながらただ、
「ありがとう!」
と言って、目が悪い私には見えない場所へと消えていってしまった。

 そよ風が吹いて、草と土の匂いがどこからかして、それは読んでいた小説の中からかもしれないし、内容を勘違いしていた私の頭の中からかもしれない。


 私には恋を成就させる気概も勇気もなかったし、何よりその時の私は小説で全ての満足を得られてしまっていたから、彼とはそのまま、何もなしだったのだけれど、今になってその思い出が毎日毎日、心に浮かぶ。もう小説は、滅多に読まない。それは多分、小説では得られないものを知ってしまったからだろう。けれども私は街を歩いて、微かに感じる草と土の匂いから、あの小説に、あの時の恋に思いを馳せる。

 多分私は縋っているのだ。現実を知るにはあまりに幼く、素直でいられた、五月の小さかった私自身と、怖いくらいに素直で優しい、五文字の言葉に。

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