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精霊の王(はざまのカミサマ)

精霊の王(神様や仏様が来る、その昔)

日本人が「神様や仏様」を持つ前に
この島国に居た
縄文的な精霊である宿神「古層の神」
をめぐる書
「精霊の王」中沢新一著 講談社では
精霊の王」→「宿神」
 →「後戸の神(
摩多羅神)」→「翁」
という展開がある。

とりわけ、本章と併記される「明宿集」
(世阿弥の娘婿猿楽師金春禅竹が後進の為に残した伝書)
で、「翁」は次のように紹介されている

そもそも「翁」という神秘的な存在の根源を探究してみると、
宇宙創造のはじまりからすでに出現していたものだということがわかる。
そして地上の秩序を人間の王が統治するようになった
今の時代にいたるまで、一瞬の途切れもなく、王位を守り、
国土に富をもたらし、人民の暮らしを助けてくださっている。
  「精霊の王」「明宿集」口語訳

この「翁」という存在について
免疫学者で能作者でもある多田富雄氏は「脳の中の能舞台」(新潮社)
の中で以下のように記している。

日本では古来から「翁」という言葉は、老人を尊敬する言葉であった。
この言葉のほかにも「長老」という言葉があるが、この場合の長はオサの意味であり、こうなると『オサ』は『鯛は魚のオサ』という言い回しが広辞苑にも紹介されているように、その中で「もっとも優れているもの」というほどの意味になる。要するに「老い人」である翁という人間は、日本文化の中でも特別の畏敬の対象であったのだ。


人は誰も「老いる」ことにある種の恐怖を持っている。
しかし、日本文化の中では、多田氏に言わせれば
「老いることは、神に近づくことでもあった」
ということになる。
なぜ日本人が「老い」というものに
それほどの価値感を見いだしたかといえば、
「それは日本人が時間というものを、
 たんに過ぎてゆく物理現象ととらえたのではなく、
 時の流れによって積み重なってゆく
自然の記憶のようなものを発見したから」

なのである。
 
こうして考えると、
日本人には、どうも老いという人間の生命の限界を示唆する
否定的な意味合いの言葉に価値を発見し、
それを芸術的な作品にまで結晶させ得る能力があるようだ。
つまり日本人は、老いというものにも、
単に衰え行く肉体と精神
という否定的な面ばかりではなく、
蓄積された時間の記憶の中にある価値を見い出し、
それを日本文化という荘厳な構築物にしてしまうのである。
ここに日本文化の奥深さの正体があるのではなかろうか。

ともかく日本人特有の
「あはれ」も「ほろび」「わび」「さび」
のような言葉も、
他言語に翻訳すれば、
実に味気ない否定的なものになってしまいがちだ。
ところが日本人は、これを一旦
日本的感性
というフィルターを通して見直し、
そこになんともいいようのないような
永遠の「美」や「価値」
を見出してしまうのである。

現代社会では、
長生きすることを素直に幸福
とは言えない。
長生きの結果である「老いた人」は、
古来から世界で忌まわしいものではなかったか。
そう「姥捨て」で見られるように、
時に社会から排除される存在であったかもしれない。

しかし、一方で「姥捨て」は
「老人の尊厳を守る儀式」
という見方はできないだろうか。
老人が「お荷物」になる前に、
「別の世界」へ移動させる儀式。
「忌まわしい存在」
として記憶されるのではなく
帰属社会を維持するために自ら去る
「誇り高き存在」として
記憶されるべく。

それはあくまでも
「逝ってしまう老人」
 からの視点ではなく
「遺された者」
 からの視点であるのだけれど。

なお、「精霊の王」とは、
古来から森羅万象には、
精霊が宿っているという
「日本のマナイズム」
でいう「精霊」たちの王をさす。
精霊は
自然の山川雨風だけでなく、
昆虫を含むあらゆる生き物「有情」のもの
草花などの「無情」のもの。
はては、道具類などにも宿る。
そう道具類に宿る精霊は
付喪神(つくもがみ)とも呼ばれる。

これらの精霊たちの存在は
猿楽(能楽)では、
天台宗仏教由来に
「国土草木悉皆成仏
(こくどそうもくしっかいじょうぶつ)」
と説かれる。
「森羅万象の全ての存在は(仏性)持つ
→成仏できる」
という意味ではあるが、
日本に伝わった仏教が、
日本人の「古層の神」である
宿神(精霊の王)への信仰
を取り込んだように思われる。

そして、もちろん、その
精霊の王への信仰
いや、信仰というよりも、もっと淡い
精霊の王=「なにごと」へ
の畏敬の念のようなものが
日本人の意識の底に根付いていて、
「日本人の美学」を形成する要因
になっているように思われる。

「精霊の王」中沢新一著

精霊の王(神様や仏様が来る、その昔)

さようならの理






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