38/1,000冊目 ヘルマン・ヘッセ 『ヘッセ詩集』
ヘルマン・ヘッセ 『ヘッセ詩集』
18歳のころの処女詩集より70余歳の晩年に至る全詩集の中から、各時代を代表する作品を選び抜いて収録したヘルマン・ヘッセの詩集。翻訳は方は高橋健二氏。全146編。
ひたすら詩人になりたいと願い、苦難の道のりを歩み続けたドイツの抒情詩人ヘルマン・ヘッセ。
内容と出版年
ヘルマン・ヘッセ誕生(1877年)
『処女詩集』(1902年)(25歳)とその前後
第一次世界大戦勃発(1914–1918年)
『孤独者の音楽』(1915年)(38歳)とその前後
『夜の慰め』(1929年)(52歳)とその前後
『新詩集』(1937年)(60歳)とその前後
ヘルマン・ヘッセ死去(1962年)(85歳)
感想
すべて音読してみた。
高橋健二さんの翻訳、時々読みづらいことがある。
慣れれば大丈夫だろうか、不明。
ヘッセの人物像をまだよく知らないまま読んだため、彼の世界の変遷が感じられて興味深い。
詩は良いと実感。何に良いのか。よくわからない。
なんとなくトンネリング効果が現象する気がする。
トンネリングとは、意識が集中しすぎた結果、合理的な判断ができなくなる状態。
ヘルマン・ヘッセ
ヘルマン・カール・ヘッセ(Hermann Karl Hesse)
生没:1877年 (ドイツ帝国、ヴェルテンベルク王国、カルフ0 - 1962年(スイス、ティチーノ州モンタニョーラ)(享年:85歳)
代表作:
『車輪の下』(1906年)(29歳)
『デミアン』(1919年)(42歳)
『荒野のおおかみ』(1927年)(50歳)
『少年の日の思い出』(1931年)(54歳)
『ガラス玉演戯』(1943年)(66歳)
ヘルマン・カール・ヘッセは、ドイツ生まれのスイスの作家。主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者。
南ドイツの風物のなかで、穏やかな人間の生き方を描いた作品が多い。また、ヘッセは、風景や蝶々などの水彩画もよくしたため、自身の絵を添えた詩文集も刊行しています。1946年に『ガラス玉演戯』などの作品が評価され、1946年(69歳)にノーベル文学賞を受賞しました。
生涯
1877年にドイツ南部ヴュルテンベルク王国のカルフに生まれる。
カルフ(Calw)は、ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州に属する都市。シュヴァルツヴァルト北部にあり、ナーゴルト川沿いに位置する都市で、人口は約2万4千人(2004年末)。
ヴュルテンベルク王国は、19世紀から20世紀初めにかけてドイツ南部を統治した王国です。
ヘッセ家は、エストニアのバルト・ドイツ人の家系でした。ヘッセの父親は、その名をカール・オットー・ヨハネスといい、スイス・バーゼルの宣教師でした。父カールは、ヘッセの祖父カール・ヘルマン・ヘッセと祖母イェニー・ラスとの間に生まれた五男でしたた。そして、父カールは、インド生まれのマリー・グンデルトとの間に4人の子供をもうけました。ヘルマンは、その2人目の子供でした。
1881年(4歳)に両親は布教雑誌の編集のために、スイス、バーゼルの伝道館に招かれます。ヘッセは活発な子供で、4歳頃から詩を作っていました。1886年(9歳)に母方の祖父のいるカルフに戻ります。難関とされるヴュルテンベルク州立学校の試験に合格し、14歳のときにマウルブロンの神学校に入学。しかし、半年で脱走。ヘッセは、両親の知り合いの牧師から悪魔払いを受けますが、効果はもちろんありませんでした。その後、ヘッセは、自殺未遂を図ったため、シュテッテン神経科病院に入院させられます。退院後に、ヘッセは、カンシュタットのギムナジウムに入学しますが、その学校も退学。それから、本屋の見習い店員となりますが、3日で脱走。当時の経験は、『車輪の下』の原体験となっていると言われています。
その後、さまざまな職に就きながら作品を執筆し、1895年(18歳)からはテュービンゲンのヘッケンハウアー書店の店員として働く。
これはヘッセが作家として成功を収めてから有名になり、店にはヘッセの作品のコーナーが作られました。1896年(19歳)にウィーンの雑誌に投稿した「マドンナ」という詩が掲載されました。1899年(22歳)に最初の詩集『ロマン的な歌』を自費出版。1904年、27歳のときに、ヘッセは、マリア・ベルニリという女性と結婚し、次男のハイナー・ヘルマンを含む3人の子供をもうけました。この頃のヘッセの作品は、ノスタルジックな雰囲気の漂う牧歌的な作品が多い。これらの作品が描く世界は、ある意味では、一つの価値観に基づいた予定調和の世界となっていると言われています。
1904年(27歳)からボーデン湖畔のガイエンホーフェンに住み、1912年(35歳)からはスイスのベルンに移りすみました。
第一次大戦中にはドイツの捕虜救援機関やベルンにあるドイツ人捕虜救援局(Pro Captivis)で働きました。
1919年(42歳)の『デミアン』執筆前後から作風は一変しました。この頃、第一次大戦の影響などもあり、ヘッセは深い精神的危機を経験します。ティチーノ州のモンタニョーラという小さな村に落ち着き、カール・グスタフ・ユングの弟子たちの助けを借りながら、精神の回復を遂げました。そのなかで、ヘッセの深い精神世界を描いた作品が、『デミアン』でした。
それ以降の作品には、現代文明への強烈な批判と洞察、精神的な問題点などが多く描かれるようになりました。
1924年(47歳)、ヘッセは、ルート・ヴェンガーという女性と結婚しますが、3年後に離婚しました。同年スイスに帰化。また、1931年(54歳)には、アシュケナジム・ユダヤ人のニノン・ドルビン(旧姓アウスレンダー)という女性と結婚しました。なお、ヘッセとニノンは、長年の間、文通をしていました。
アシュケナジム
アシュケナジム(Ashkenazim)とは、ユダヤ系のディアスポラ(「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、よくパレスチナ以外の地に移り住んだユダヤ人およびそのコミュニティ)のうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々およびその子孫を指したもの。語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上1章6節に登場するアシュケナズ。
アシュケナジムとセファルディム(ディアスポラとなったユダヤ人の内、アシュケナジム以外のユダヤ人の総称)は、今日のユダヤ社会の二大勢力。アシュケナージは、ヘブライ語でドイツを意味した言葉。
平和主義を唱えていたヘッセの作品は、ナチス政権から「時代に好ましくない」というレッテルを貼られて、ドイツ国内で紙の割り当てを禁止されました。
1946年(69歳)、ヘッセは、ノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞しました。翌47年には生まれ故郷のカルフ市の名誉市民とりました。
同年、アンドレ・ジッドの訪問を受けます。
アンドレ・ジッド
アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 - 1951年2月19日)は、フランスの小説家。
人間の自由とキリスト教的モラルの対立を主題にした小説が多い。幼時に受けた厳格な宗教の教育と性的な欲求の矛盾が、その根底にあると言われています(*3)。
1962年(85歳)、ヘッセは43年間を過ごしたスイス、モンタニョーラの自宅で死去し、サン・アッボンディオ教会に葬られました。享年85歳。
Walk of Ideas
「ウォーク・オブ・アイデア」は、2006年FIFAワールドカップ・ドイツ大会のために、ショルツ&フレンズがベルリン中心部に設置した6つの彫刻。この彫刻は、「Welcome to Germany - the Land of Ideas」というキャンペーンの一環として、2006年3月10日から5月19日にかけて設置されました。
この中にヘッセの名がありました。
参照
*1
*2
https://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Hesse
*3
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