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34/1,000冊目 太宰 治(著) 『走れメロス』

太宰 治(著) 『走れメロス』

太宰治の短編集。1940年(31歳)に『新潮』に初出。
処刑されるのを承知の上で友情を守ったメロスが、人の心を信じられない王に信頼することの尊さを悟らせる物語。

基になった伝承とその系譜

作品の最後に「古伝説とシルレルの詩から」と記述され、古代ギリシアの伝承とドイツの「シルレル」、すなわちフリードリヒ・フォン・シラーの詩を基に創作したことが明らかにされています。

『走れメロス』のもとになった伝承は、杉田英明(日本の中東地域文化研究者、比較文化学者、東京大学名誉教授)によると、古代ギリシアのピタゴラス派の教団員の間の団結の固さを示す逸話として発生したものとのこと。(※2)。広義の地中海・中東世界で発展し、日本に伝わった。

ピタゴラス派は宗教・政治団体の性格を持つ秘密結社を組織しており、構成員は財産を共有して共同生活を行い、強い友愛の絆で結ばれていました。

杉田が伝承のもっとも初期の一つとして挙げている、新プラトン主義者であるカルキスのイアンブリコス(240年頃 - 325年頃)が著した『ピュタゴラス伝』(De vita pythagorica)では、ディオニュシオス2世が治めるシケリア島(現・シチリア島)のシュラクサイ(現・シラクサ)が舞台となっており、のちにコリントスに追放されたディオニュシオス2世が体験談として哲学者で音楽理論家のアリストクセノス(紀元前4世紀頃)に語ったものであるとされています。

ピタゴラス派の教団員である Δάμων(Damon;ダモン)/Damon(ダモン、デイモン)と Πυθιάς(Pythias;ピュティオス/ピュティアス)/Pythias(ピシアス)/Phintias(フィンティアス)の友情の美談であり、西洋ではメロスとセリヌンティウスよりこちらの名前が有名。英語において二人の名は “Damon and Pythias(デイモン アンド ピシアス)” で無二の友(固い友情で結ばれた親友)を意味する慣用句になっています。

『ピュタゴラス伝』に収録された内容は次のとおり。

ピタゴラス派に反感を持つ者たちの口から発せられた事実無根の告発または冗談によって、ディオニュシオス2世からピュティオスに対して、王に向けて陰謀を企てた罪による死刑が申し渡される。実のところ、これは、ピュティオスの反応を見るための芝居であった。ピュティオスは身辺整理のため、その日の残り時間を猶予として願い、そのための保証人にダモンを指名する。事情を聴いたダモンは保証人を引き受けたが、はかりごとの張本人たる反ピタゴラス派の者たちは「お前は結局見捨てられる」と言ってダモンを嘲笑する。ところが、日が沈みかけた頃、ピュティオスは約束どおりに現れた。その場にいた誰もがみな感動し、魅了される。ディオニュシオス2世は「わしも第三の男として友情に加えてほしい」と頼むが、拒否される。ピュティオスやダモンの深い心理描写は無く、最後にピュティオスが許されたかどうかも明らかにされていない。物語というより、実際あった事件の報告といった趣で、ピュティオスが走って現れる描写も無い。

一方、紀元前1世紀の歴史家であるシケリアのディオドロスが『歴史叢書(Bibliotheca historica)』に記した伝承は、イアンブリコスのものと影響し合うことなく成立したと思われるが、より物語性が強く緊迫した内容で、ピュティオスが刻限ぎりぎりに登場するなど、『走れメロス』に近い筋書きになっている。

ポッジョ・ブラッチョリーニがラテン語化した、『歴史叢書』の彩色写本(マラテスティアーナ図書館、ms.S.XXII.1)。
By Sailko - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28533078

わしも第三の男として友情に加えてほしい」という台詞はイアンブリコスのものと共通しており、この言葉は、以後、シラーから太宰にまで伝承されている。

1世紀の共和政ローマの独裁官ウァレリウス・マクシムスが『著名言行録(Factorum ac dictorum memorabilium libri IX)』で、2世紀のローマ帝国の著作家ヒュギヌスが『説話集』で、この伝承に文学的装飾を施し、後世に大きな影響を与えた。

ヒュギヌスは『説話集』「友情で最も固く結ばれた者たち」でピュティオスとダモンの名をモイロスとセリヌンティオスに変え(モイロスがドイツ語圏でメーロスとなった)、ピタゴラス派の団員という設定を消した。

また、3日間という猶予、妹の婚礼、暴風雨による川の氾濫という障害を追加し、処刑方法を具体的に磔刑にした。シラーが直接典拠にしたのは、ヒュギヌスの作品である。

古代ギリシア・ローマ世界で広く流布した友情物語は、舞台設定や登場人物を変えながらアラブ世界に広まり、9世紀から10世紀にはアラビア語で記録されるようになった。

杉田は、アラブ世界に流入した経緯や時期は不明であり、ビザンツ文化と共に伝承した可能性もあるが、「アッバース朝最盛期のギリシア文献の翻訳時代に、その担い手であるネストリウス派キリスト教徒の手で移入された可能性のほうが大きいかもしれない。」と述べている。イスファハーニーの『歌謡集』にアラブ世界における初期の形が見られ、『千夜一夜物語』でも「ウマル・アル=アッターブと若い牧人との話」(第395話 - 第397話)として、イスラーム黄金時代を舞台に変奏しつつ展開されている。

地中海世界およびアラブ世界で発展した伝承は、中世ヨーロッパに流入し、復活した。杉田は、ヨーロッパでの復活は14世紀以降と思われ、ウァレリウス・マクスィムス(1世紀)『著名言行録』がキリスト教の僧侶が説教を行う際の手引きとして活用されたことが大きいと述べている。様々な媒体で伝承は広く流布し、18世紀末の1799年にシラーの『人質』が発表された。1815年にはオーストリアの作曲家フランツ・シューベルトがこの詩の歌曲(D 246)を作曲した。

太宰は、小栗孝則(20世紀前半のドイツ文学者)が1937年(昭和12年)7月に翻訳したシラーのバラード『Die Bürgschaft』の初版『人質』(『新編シラー詩抄』改造文庫)を参考にした。小栗は訳注にメロスの友人の名がセリヌンティウスであることを記しており、太宰の書く「古伝説」とはこれを指す。

日本では、太宰以前に、明治初期に幕末を舞台にした翻案(シラーの詩を直接的にか間接的にか参照したと思われるもの)があり、この伝承は青少年の道徳心を育てる目的で学校教育に採用され、広く読まれていた。

太宰が使った高等小学校1年生の国語の教科書にも「真の知己」のタイトルで所収されている。1921年(大正10年)には鈴木三重吉により「デイモンとピシアス」の題で『赤い鳥の本』(第9冊)に収録された。「走れメロス」の登場後は、教育で使われるのは同作になり、第二次世界大戦後はほぼずっと中学校の国語の教科書で使われている。


創作の発端

懇意にしていた熱海の村上旅館に太宰が入り浸って、いつまでも戻らないので、妻が「きっと良くない生活をしているのでは……」と心配し、太宰の友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と依頼した。

往復の交通費と宿代などを持たされて熱海を訪れた檀を大歓迎する太宰であったが、檀を引き止めて連日飲み歩いた挙げ句の果てに、預かってきた金を全て使い切ってしまった。太宰は、飲み代や宿代も溜まってきたところで、今度は、宿の人質になってくれるよう檀に願い出る。自分の身代わりとして今回の借金の支払いの担保になってくれ、宿に留まってくれれば自分が金を工面してきて君を質屋の質草宜しく受け戻すから、ということであった。檀を説き伏せた太宰は、東京にいる井伏鱒二のところに新たな借金をしに行ってしまう。

ところが、数日待ってもいっこうに音沙汰が無い。痺れを切らした檀は、宿屋と飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとへ駆けつける。するとそこでは、井伏と太宰が夢中で将棋を指していた。激怒する檀に太宰は言ったという。「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 どうやら太宰は、今まで散々面倒をかけてきた井伏だけに、新たな借金の申し出をどのように切り出したらいいものやらと、タイミングが掴めずにいたらしい。

後日、発表された『走れメロス』を読んだ檀は、太宰の死後に著した『小説 太宰治』(1964年/昭和39年刊)の中で、「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と述べている。

とウィキペディアにはあるが、少々というかなり出来すぎた話に聞こえる。


太宰 治(だざい おさむ)

生没:1909年ー 1948年(38歳没)

日本の小説家。本名:津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家とも言われる。※1

感想

ぐいぐい読ませる。単純におもしろい。そしてメロスはとんでもないやつだとも強く思う。

参照

※1


※2


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