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太平洋戦争末期、月刊誌「主婦之友」の売りでもあった食事のレシピは、材料をいかに確保するかが最大の課題に

 太平洋戦争の戦局は悪化の道をたどり、そろそろ前線も国民の窮乏生活も一部の富裕層を除いて限界に達していた1945(昭和20)年。それでも情報局の指示を最大限に配慮しつつ刊行を続けてきた同年4月6日印刷の主婦之友5月号は、52ページまでに減っていました。表紙絵も、職業婦人にしろ、歯を見せるような笑顔はいけない、こんなものが戦力になるのかーなどと情報局に言われまくった結果、大きな女性の笑顔が特徴だった表紙は鉱山か工場で働く女性2人になっていました。

もはや婦人雑誌とは思えない主婦之友の1945年5月号。副題は「必勝の戦場生活」に。

 戦前の主婦之友は、一貫して家庭生活の向上に取り組み、レシピも栄養や見栄えなど工夫したさまざまな料理を紹介していました。5月号発行後まもなく、空襲で静岡県に疎開、6月号はさらにページ数を減らした影響でレシピの紹介がなくなります。つまり、レシピを掲載した終戦前最後の号が5月号なのです。
 そのレシピページの名称は「家庭の戦場食生活」。「国土が、わが家が、文字通りの戦場と化した今、食生活もまた戦場化されねばならぬことは当然です」と覚悟を求めます。副題の「必勝の戦場生活」に沿った内容です。

文字と説教が並ぶこのページがレシピのページです。

 「▲配給を頼っていられなくなる いつなんどき交通機関が爆撃され、輸送が止まってしまうかもしれない。そんな場合びくともしない自給自足の態勢が整えられているでしょうか。戦場にありながら食糧の不足をかこってはいられません。野菜の増産はもとより、食糧の完全な防護をこの際さらに強化してください。」と強調。携帯食の準備と共同炊事を勧めています。

 さて、共同炊事向け料理としては、次のようなレシピを掲載しています。
 【朝・昼】
 野菜パン=みじん切りにした野菜を油で炒め、塩味をつけてさましておき、小麦粉とふくらし粉を混ぜた中へ加え、まとまる程度に水でこねて、蒸すかフライ鍋でふたをしてゆっくり焼きます。
 【夕】
 ライスカレーと胡麻和え=ライスカレーは小麦粉1人中さじ1杯にカレー粉6分の1くらいの割合で一緒に乾煎りしておき、野菜を油で炒め、塩コショウして出汁か水を1人1合の割合で加え、軟らかくなるまで煮ます。牛肉の配給があったら少しでも加えるとよく、その他貝類、小魚などを入れると味も栄養もよくなります。この汁に炒めた小麦粉をときいれ、塩で味を調えご飯にかけます。胡麻和えは胡麻がない場合はかぼちゃの種でもよいし、またはラッカセイあえでも結構。何もなければお浸しでもよい。これにはせいぜい、野菜を活用してください。
 豆腐のすましと炊き込み寿司=炊き込み寿司は、コメ1升に酢1合、塩中さじ2杯の割合で、ありあわせの野菜や乾物などを細かく切ったものと一緒にし、普通の水加減で炊きます。おすましは、豆腐の薄切りに、あればネギを細かく切って散らします。

 そして、携帯食は空襲の激化も受けてか、さまざまなものを紹介しています。代表的なものを2つ紹介しますと…
 米粉のお焼=お米を洗い、ざるにあげて、やや湿りのあるところをすり鉢ですりつぶして水を混ぜ、どろどろに溶いて、コメ1合に対しふくらし粉茶さじ山盛り3,4杯(重曹なら茶さじ1杯)を加え、フライ鍋に油か小麦粉少々を振り入れて両面を焼きます。人参があったらおろして加えると甘くなり、色もよくなっておいしくいただけます。
 ビスケット=小麦粉1合、または1食分のコメを粉にしたもの、塩茶さじ1杯、ふくらし粉茶さじ1杯、重曹なら茶さじ5分の1くらい。小麦粉、塩、ふくらし粉を混ぜ合わせ、水3、4勺を加えてさっくりと混ぜ、耳たぶよりやや硬くこねます。これを粉をふるった板の上にのして、乾パンくらいに切り、熱したフライ鍋に並べてふたをし、とろ火で両面を焼きます。お米と差し引き配給の大豆のある時は、いってすりつぶして黄粉にして加えると、栄養もよくおいしくなります。なお、からからに焼き上げたものは、乾パンのようにいつまでももちます。
           ◇
 以上、レシピの一部を紹介しましたが、ここでわかるのは、調味料が極端に限定されていて、砂糖が全くないことです。しょうゆすらも登場しないのは、当時の民生用の塩不足を意識しているのでしょう。それに、動物性蛋白質も、基本的に前提としていません。
 また、細かな材料を特別に指定していないことも特徴です。レシピというよりは調理技術という感じがあります。とにかく、手元にあるものをどうやって食べるかーに重点を置いたのでしょう。
 肉や脂分をほぼ使わない「カレー」、酢の風味のごはんに野菜を刻みいれただけの「寿司」、油分を使わない塩味の「ビスケット」…。実際には、油の配給(有料)も大変心細かったのです。それでも食べねば生きられない、何か作らねばならない女性たちへの、せめてもの応援だったのかもしれません。
 ちなみにこの5月号、食生活は3ページだけでしたが、野菜作りには6ページを割いていました。

イラスト入りで素人向けに配慮

 これも「配給をあてにはしていられない」を受けた処置でしょう。いかに食べるかより、何を食べるか。庶民をそこまで追い詰めていた戦争は、まだまだ続きました。
           ◇
 追記・この記事を見た方から、1944年当時、女学校の調理実習では豆かすが使われていて、その後、熊本に疎開、群馬に再疎開しますが、主食も配給は豆かすと高粱で、石臼でひいて粉にしたものを水でといてどろどろの汁を飲んだという体験談をいただきました。一方で、食に困ったことはないという方もおり、格差は最後まで続いたようです。

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