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空襲対策に毒ガス防御が重視されましたが、結局使う場面はありませんでしたー懸賞では話題を呼びましたが。

 第一次世界大戦では、毒ガスが兵器として戦場で初めて大規模に使われました。しかし、終戦後、その凄惨な戦いからドイツの毒ガス兵器使用が禁止されたのを機に、化学兵器も含めて使用を禁止する機運が高まり、1925(大正15)年6月の「ジュネーヴ議定書」で毒ガスと細菌などによる化学兵器の使用は禁止されました。ただ、研究は可能で、日本やアメリカは署名したものの、批准はしていませんでした。
 そしてもし戦争となれば、そんな約束事がどこまで守られるか、各国とも信用できなかったのでしょう。大日本帝国も、毒ガス兵器や細菌兵器の開発・生産とともに、空襲時に毒ガスをまかれることを想定した防毒マスクが作られました。また、防空演習では、毒ガス対策が取り入れられています。

防空演習では毒ガス対策が組み込まれる
防毒マスクを装着しての救護演習

 上写真は、1933(昭和8)年か、1937(昭和12)年の関東地方での防空演習の様子で、防毒マスクも装着しています。民間用で一番性能が良かった「団用一号」を収蔵していますのでみてみましょう。

唱和化工製造の団用一号甲(隔離式)のセット
右から防毒面と連結管、吸収缶、吸収缶を入れて下げるかばん
説明書にあった各部の名称図
連結管で吸収缶と覆面をつないで
装備するとこんな雰囲気です
効用は絶大!

 この団用というタイプは、軍隊以外の消防団や防護団、警察、消防、救護などの担当者が使うことを想定したものです。このように毒ガスを無害にする吸収缶が大型のもののほか、吸収缶と覆面が一体になった直結型もつくられました。性能はやや落ちても、取り回しが簡単という利点がありました。

団用の直結型
横から。それでもこれを付けて活動するのは大変だったでしょう

 これら、救助など積極的に活動する人向け以外に、一般用の防毒マスクも作られています。簡易な作りの直結型です。こちら「一七年式防空用防毒面」というのが正式名称で、つまり、1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まって以後に開発、生産されたもの。一般人は、やはり後回しですね。

一般向けにつくられたもの
正式名称。製造年月が入っているようだ

 さて、臣民の間に緊張感を持たせ、戦時体制を抵抗なく進める狙いもあった防空演習。その繰り返しによる関心の高まりに目を付けて、1938(昭和13)年には赤玉ポートワインの懸賞商品として、防毒面を含む防空用具が登場しています。

「防空用具進呈」と大々的にポスターをつくり
一等は服までそろえた一式をもらえますが、他の商品も選べます。

 戦局も下り坂になってきた1943(昭和18)年8月4日発行の「写真週報」第283号は、防空の特集を組んでいます。掲載の防空装備には、先にお見せした一般向け防毒面も含めています。

緊張感あふれる表紙を開くと
男女の完全な防空用服装の一例があり
防毒面も「当局より指定された所では備える」と

 ただ、防毒面もただではありませんし、生産力の問題もあり、一般に充分行き渡ることはありませんでした。幸い、日本への空襲で毒ガスが使われることはありませんでしたが、陸軍の予想をはるかに上回る激しい焼夷弾空襲や原子爆弾で多数の犠牲者が出たことは、大変残念なことです。長野県でも複数の空襲やついでの爆弾投下があり、長野市と上田市への1945(昭和20)年8月13日の米軍艦載機による空襲では、少なくとも47人の犠牲者が出ています。
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 これらの戦時中の防毒マスクは、戦時下という非日常をよく伝える品の一つです。条約はあってもいつどこが使うか分からない不安への備え。これは、平時の常識が通用しない、戦争というものの性格をよく表しているのではないでしょうか。ちなみに、日本軍も毒ガス兵器、細菌兵器の研究や生産を行い、さらに実際に使用したこと、そしてそれを中国大陸に遺棄してきたことから、敗戦後にも新たな被害者を生んでしまったことも忘れてはいけないでしょう。

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