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「協同主義の経済倫理」について⑴

 今回は「協同主義」の提唱者である三木清が昭和研究会から発表した協同主義の経済倫理についてです。(正確には昭和研究会の全体から発表されたもの)

 三木清とは?

 数奇な人生を辿った京都学派の哲学者・三木清について説明していきます。

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 京都学派の代表的人物・西田幾多郎の弟子になり、谷川徹三、林達夫、小田秀人らと切磋琢磨した彼は、京都学派における栄光の時代の一人と言えるます。

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 戦後に新左翼の革命理論家的存在になった羽仁五郎とマルクス主義系雑誌を立ち上げたり、共産党へ資金援助して逮捕されたり、大学上層部と対立し教壇を追放されたり、未亡人と不倫したりと若かれし三木は、時代に躍動する若者の一人でした。

 近衛文麿を政策集団である昭和研究会に誘われると、資本主義でも共産主義でもない協同主義を訴え、瞬く間に時の政権のイデオローグへと転身。数年もしないうちに、彼は資本家や軍部に骨抜きにされた近衛政権から去ります。

 終戦間近、京都帝大の先輩である高倉輝を赤狩りから匿い、金や服を与えた事が問われ逮捕。その後に獄中死してしまいます。彼の亡骸が見つかったのは終戦から約一ヶ月と半月でした。

 自身を師の西田や血気盛んな同級生と結びつけた母校は先鋭化する三木を煙たがり、イギリス のような資本主義でもない、ソビエトのようなマルクス主義でもない第三の政治形態を追い求めるも最後にはただ無残な敗北が待ち受ける。三木清の人物像とは、岩波と喧嘩した友人には独立資金を与え、たとえ自身がアカでなくとも、かつての友は危険を負ってでも匿う人格者としての側面と、大学の教授陣や第三の道へ果敢に挑戦し続けようとする側面が見えてきます。

所謂講壇的哲学者には頭が有っても魂が無い。

 彼が大学に煙たがられる原因になった言葉です。実に素直な言葉だと感じると同時に、私自身も同じような言葉を吐いて、鬱陶しい顔をされた事を思い出しました。

 協同主義の経済倫理

 本題に戻りましょう。本書は昭和研究会の解散する1940年に発刊されます。本書は、近衛文麿のブレーントラストの思想的方針と呼べるものでしょう(結果的にこの方針は1941年の企画院事件で完全に頓挫します)。

 はしがきを要約するに

 ヨーロッパの拡張の前、アジアの諸民族はそれぞれの(共同体的)独立と(民族的)独自性があった。アジアの世界は各々の共感と世界的妥当性を持った思想、世界観によって構築される。

 ここまではよく知られるアジア主義的価値観です。

 支那事変の解決は国内改造にある。これは古い経済体制を乗り越え、新しき経済の倫理を作らねばならないということだ。

 ここからは国内改造についてです。国内改造案というと北一輝を連想させます。二・二六事件の将校をはじめとした関係者は同年代か少し若い程度であり、昭和研究会の中心人物の志賀直方も間接的でありますが関わりはあったようです。

 日本の改造を目指す彼らは経済学の基礎的倫理を作らねばならないというのである。続けて、一朝一夕で完成するものでないという現実主義的な言葉まではしがきに記述します。目の前でクーデーター未遂や暗殺事件などが勃発しているわけですから、そんな簡単でない事くらい私たちより理解していて当然と言えます。

 新しい経済倫理の必要

 要約

 支那事変の完遂の必要は日本を全く新しい方向へと動かしている。それは自由主義経済から統制経済へと変化していく事だ。この変化は可逆性を有したものでない。むしろ、自由主義経済の矛盾によって、発生したものであり歴史的必然性の出来事である。

 支那事変という題目を用いていますが、これは立派な共産主義の革命理論と呼べるでしょう。資本主義(自由主義経済)の矛盾が帝国主義戦争(統制経済)へと発展する。使い古されたんではないかというくらい、基礎的なマルクス・レーニン主義の理論展開です。

 統制経済には指導原理が存在するはずである。形式的に統制と考えても、指導原理のない統制とは混乱を惹き起こすだけである。統制に目的と手段を与え、新しい経済の内部と構造を明らかにしなければならない。

 この文章から戦争推進に関する国家体制に対しての新しい発見があります。支那事変が計画的でない、もしくは国内改造計画になく(後者の方が可能性が極めて高い)、勝手に日中戦争の火種が発火し統制経済が訪れたと受け取れます。

 自由主義経済が組織されない経済体制であるのに対し、統制経済は組織化された経済である。組織化の原理が理解できて、はじめて統制が行える。この原理を、我々は協同主義と唱える。自由主義の次段階は協同主義経済(統制経済の一部)である。

 自由主義が組織されない経済とは、市場での競争状態を指しているのでしょうか。「組織化された経済」とは、あくまで市場の統制のみであれば、トップダウン型の計画経済になっていくことが予想されます。五箇年計画のような統制経済を模索した場合、指導原理は計画に宿る方針の事を指しているのでしょうか?

 協同主義経済の目的は経済協同体の建設にある。全体の立場に立ち、公益の原理に規制される。自由主義の営利主義とは異なり、協同主義の公益主義は倫理的である。この場合、経済の外部から倫理的要求を求めるのでなく、内部から倫理に存在するものなのだ。協同主義の倫理は、単なる倫理でなく、経済の倫理でもある。自由主義経済の矛盾は、協同主義の原理によって解決していく。

 新しく登場した経済協同体という単語は、昭和研究会の蝋山政道氏が先導した東亜協同体論から現れた単語だと考えられます。この東亜協同体論は当時の国民政府(蒋介石政権)やアジア各地の民族政府とポスト脱西洋のアジア原理の確立を目指したものです。キリスト教・防共の汎欧州運動(後のEU)のアジア版とでも喩えられるものです。

 かかる経済の倫理を特に倫理として取り上げる所以は、経済現象が単に物質的現象でなく、その中には意識をもって活動する人間が入っており、この人間の主体的な自覚が経済発展にとって重要な関係を有すると考えることに依るものである。

 経済が物質的現象と捉えられるのは、生産力の水準として用いられる質と量といった数字化、唯物論の存在が鍵となってきます。本書が執筆された1940年も経済を物質的現象と捉えています。

 戦争経済に移行した際、戦争時のシミュレーションした総力戦研究所や戦争経済をコントロールした国家官僚も、こういった物質的現象という捉え方ができたからこそ、算出し計画及び実行できたのでしょう。

 先述した経済を物質的現象として学んでいた三木清が、経済を受動的な物質的現象のみでなく能動的な行為の関係も関わってくると提起するのは、後述する変化を起こす思想家的側面からと考えられます。

 すべての歴史的なものは単に客観的なものでなく、客観的であると同時に主観的なもの

  学者たちに頭があっても魂がないと批判した三木清らしい一文だと思います。歴史を客観性に基づいた解釈のみでなく、主観的展開にしていく学者から思想家としての転換が見えてきます。

 客観的側面より捉えられたものが論理であり、その主観的側面より捉えられたものが論理である。しかも論理と倫理とは別個のものでなく、両者は統一を為している。

 論理と倫理の違いを明確にしつつ、本定義を協同主義哲学の根本的見解とさえ言い切りる。論理と倫理の二つの概念が統一される、言い換えれば客観的にも主観的にも整合性が取れたのが協同主義と言えます。

金銭に対する軽蔑、経済的である事の非倫理性、このような考えは封建主義の産物であり、近代の市民道徳により否定された。

 金貸しのユダヤ人と侮蔑したヴェニスの人々、商人よりも御恩と奉公の武士階級が跋扈した日本、こういった階級社会は克服されるべきであると述べ、近代の先進的試みを賞賛しつつも自由主義は論理と倫理の統一ができていなかったと批判します。

 自由主義が求めたのは人間の自由、解放である。それはその動機において倫理的であったといえるであろう。然るに現実においてそれがもたらしたのは持てる者の自由に過ぎず、多数の持たざる者は非人間的な奴隷の状態に置かれることになった。自由主義は人間の尊重すべきことを主張したが、そこでは人間が物を支配するのでなく、反対に物が人間を支配するという結果になった。

 マルクス主義をしっかり学んだことが資本主義批判に表現されています。同時に、社会主義運動への言論弾圧のあった時代とは思えない、ましてやこの文章が政権の方針になろうとしていたことに驚愕します。

 「物が人間を支配する」資本主義への批判は、生産・流通・消費の人間疎外への指摘だと考えられます。社会主義理論の展開として、スタンダードな論理展開です。→疎外論

 自由主義経済学において想定されたいわゆる経済人は、自律的意思の主体たる具体的な人間はなく、純粋に貨幣計算に終始するような人間であり、かかる経済人に与えられた自由は、実は、資本の蓄積に与えられた自由にほかならない。

 本来的自由は、資本主義の下で手に入らない。これは持つ者も持たない者も、非人格的存在になったと後述していることからはっきりとした資本主義批判であり、人間の解放、自己実現の労働を目指す共産主義運動にも通じます。

 生産が無秩序であり、生産物の分配も同様に無秩序であるところの社会においては、人間の経済生活は個人または協同体の意志とは無関係に働く盲目的な必然性によって支配され、人と人の関係は物と物との関係となって現れる。  

 マルクスから人と人との関係が物で代用されていく物象化を注目したルカーチ・ジェルジ廣松渉がおりました。ここでは三木清も同じく注目しています。また、他が自身の意思,命令,行動へと自己を服従させることを表現する「支配」という言葉を用いて、蔑ろにされた個人や協同体の意志を見出そうとしています。それも資本主義ではない、生産や流通を秩序あるシステムの中から。

 社会経済が市場及び競争という盲目的な力によって左右されることなく、意識的に実施される計算によって統制されるに至って、人間的自由も現実的になり得る。

 完全に社会主義の一文ですね。

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 自由主義は利己心を経済活動の基礎にした。古典派経済学は利己心を生産性と結びつけることによってその倫理性を示そうとした。

 この時の利己心とは、アダム・スミスの「人間が利己心(=私利)にもとづいて自己利益を追求すれば、『見えざる手』に導かれて自然調和が図られ、社会全体の利益が達成される」の利己心から引用した用語ではないかと考えられます。先に登場した倫理性とは生産性に結びついた結果を指すのであれば、人間社会の物質的繁栄と継続でしょうか?



ここで感想文を一旦終えます。

 

 

数年前にトルコに渡航していました。現在はオルタナティブ系スペースを運営しています。夢はお腹いっぱいになることです。