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「リベラル」といっても色々ある【『アフター・リベラル』を読んで】

はじめに

 政治学が専門である北海道大学教授吉田徹氏の『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』(講談社、2021年)の感想を述べる。ポピュリズムの台頭やテロリズムの頻発など、激変する現代政治を「リベラル」に注目して分析した書籍である。

 内容に全く関係ないが、私がAmazonで買った本書には、青色の縦にも長い帯がついている。そこを持っているとその色が薄くなり、指やそれが触れた紙のページが青くなってしまった。紙の本で本書を読もうと思っている方は、注意されたい。


後ろから読みたい!

 本書の内容はとにかく濃密である。リベラリズムの変遷とそれがもたらす現象についてかなり緻密に論じている。具体例も豊富で、計量的なデータから過去の学者、作家の表現まで幅広く、とにかく情報量が多い。また、傍論も含めてかなり詳細に説明されたり、高度な概念が目まぐるしく登場したりする。歴史認識問題の第三章とテロリズムを扱った第四章は特に、深い議論へ潜っていく。濃い内容をじっくり読んでいると、全体像というか、本書を貫く論理展開の中のどこを歩いているのかが(まさに表紙の迷路のように)分からなくなってしまうことも、ないわけではなかった。本書は簡単には消化しきれないなぁ、というのが正直な感想である。いうまでもなく、それは本書のせいというわけではなく、私の勉強不足によるところが大きい。

 ところが、最後まで読み進めると「伏線回収」ではないが、とても濃密な内容が整理されとてもすっきりする。終章の「何がいけないのか?」には以下のように書かれている。

ここまで共同体・権力・争点という三位一体の崩壊の現状と理由、その帰結を五つの事象から解き明かしてきた。そこで、これまでの議論をふりかえったうえで、これらに共通するものが何であるのか、最後に提示しよう。今まで見てきたリベラル・デモクラシーの動揺、政治的対立の構図の変転、歴史認識問題、テロとヘイトの蔓延、新たな社会運動のかたち、これらはすべて大きなうねりの中にあるものなのだ。(p.282)

 まず、第一章から第五章までの要約が書かれる。ここで、本書の内容と格闘しながら整理していた、頭の中の答え合わせをするわけである。そしてその後は、「新しい見取図」として、それぞれの内容がどのように関連しているかが語られる。

それぞれの結びつきは、状況的なものもあれば、歴史的なものもある。以上の説明は、先進国全般にみられる新たな力学を、より良く把握できるように図式化したものだ。まとめるならば、戦後にできあがったリベラル・デモクラシーの核となった中間層は六十八年以降の学生・労働運動とグローバル化によって解体され、それに付随してリベラルな価値観・文化的価値に基づく政治が生まれ、これに対する反作用から、政治コンテンツそのものの変遷が歴史認識問題やテロとして生じているというものになる。(p.288)

 そして、最も助かるのが「五つのリベラリズム」の記述である。「リベラリズム」という概念は多義的であり、それが本書でもテーマになっている。リベラリズムの中に、何を重視するかが異なる思想が内在しており、お互いに結び付いたり衝突したりするから、厄介である。ところが、終章ではリベラリズムの類型化が行われる。国家に対して個人の人権を保障する「政治リベラリズム」、商業や取引、貿易の自由を唱える「経済リベラリズム」、個人の理性的な能力を外に対して発揮するべきとする「個人主義リベラリズム」、社会保障や教育などを通して社会をより良くしていくことを重視する「社会リベラリズム」、そしてマイノリティの権利を擁護する「寛容リベラリズム」である。このように、リベラリズムの中の内容の種類を整理すると、それぞれの関係についての説明を読んだとき、すっと入ってくる。

 以上のように、終章「何がいけないのか?」は、本書の重要なポイントが整理されており、まさに本書全体の「見取図」となっている。となると、私のような読書の「基礎体力」の低い者にとっては、終章を先に読んでしまって、本書全体の構成と各々の章の関係、多様なリベラリズムの概念を理解してから本文を読むというのも1つの手であろう。また、私は前から順番に読んだが、終章を読んだ後なら、関心のある部分から読んでもよいかもしれない。


歴史認識はやはり「物語」の問題

 本書の第三章の「歴史はなぜ人びとを分断するのかー記憶と忘却」は、歴史は「フェイク」であり、認識をめぐって分断が生まれてきたことが述べられた。

歴史とは作り上げられるもの、誤解を恐れずにいえば「フェイク」であるからこそ、それは称賛や恣意的な操作の対象となる。歴史が、捏造されるような記憶を伴わず、事実だけに基づくのであれば、それは多くの人々に想像されたり、教訓を与えたりするようなものとはなり得ない。(p.153-154)
当然とされていた歴史や伝統が失われていけば人びとは、自らのアイデンティティをパッチワーク的かつ恣意的に、主体的に選択し、創造していく「再帰的近代」に生きるしかない。そこで立ち現れるもののひとつが宗教的なものへの希求だ。(p.224)

 ここで強調されているのは、歴史がもはや絶対的なものではなく、それぞれが「選びとっていく」ものであるということである。その結果分断が生じる。「再帰的近代」はまさに決断主義バトルロワイアルの時代であり、「大きな物語」が終焉を迎えた時代なのである(『ゼロ年代の想像力』を参照[過去に感想文を書いた])。

 私は、この歴史の相対性が、リベラリズム、つまり個人主義的な価値観のチェンジやその反動によって引き起こされてきたとされたところが面白かった。当然といえば当然であるが、歴史認識をリベラリズムの子どもとして捉えるのは新鮮であったし、普遍的なものが崩れる、あるいは〈近代〉をさらに推し進めるという意味では、個人主義的リベラリズムと「再帰的近代」、歴史認識問題はひとつの線でつながる。


やっぱり政治リベラリズムを擁護したい

 著者は終盤で次のように述べる。

めざすべきは人間性の剥奪に抵抗するリベラリズムの構想だ。その担い手となる個人を社会リベラリズムによって育て、政治リベラリズムによる闘いへと誘い、開かれた個人主義リベラリズムを生むような整合的なリベラリズムも考え得る。リベラリズムの最大の強みは、それ自体が多様な意味合いを持っていることにある。(p.300)

 終章の「五つにリベラリズム」で語られたように、一口に「リベラリズム」と言っても、その内容は様々である。その多様なリベラリズムを、どのように構成するかというのが、今後の課題であるそうである。それぞれのいいところ、うまく機能する部分を組み合わせて次の時代に備える必要がある。

 私はやはり、政治リベラリズムを中心に添えたリベラリズムを構想したい。まず、経済リベラリズムは場合によっては「人間性を剥奪」すると考えられる。自由市場による搾取や格差の拡大といった「矛盾」については過去に数えきれないほどの批判がなされてきた。しかし、国家や社会に指図、抑圧されないための個人主義リベラリズムと、教育の充実や再分配を肯定する社会リベラリズム、マイノリティも含めた多様性を検討する寛容リベラリズムはこれからの社会に不可欠である。ところが、これらは個人の尊厳、「かけがえのなさ」を最重要視する最初のレイヤーにあたる政治リベラリズムがあってこそである(あるいは、その存在を前提としたうえで補完的な役割を果たす)。言い換えれば、これらは「(政治)リベラリズム」という広範で理想的かつ漠然とした理念の、捉え方やクローズアップする箇所を変えたものであるといえるから、まずは政治リベラリズムを根幹に据えた上で、必要に応じて押し出す面を変えるように、また衝突に注意しながら、3種の(経済リベラリズムも入れるなとは言わないが)派生したリベラリズムを押し出していくべきである。

 そして、政治リベラリズムは立憲主義との親和性が非常に近い。なぜなら、人権を保障するために公権力を抑制する立憲主義の思想は、まさに個人としての尊重、自由を制度によって実現しようとする試みに他ならないからである。したがって、政治リベラリズムを貫徹するためには、憲法をはじめとする法規によって政治を行うという形式を絶対に崩してはならない。さらに、具体的な法も他のリベラリズムも含めた内容を保っていく(現在本当にそうかは論争的かもしれない...)ことで、リベラルデモクラシーが機能すると思われる。


おわりに

 前半で述べた通り、本書はすらすら読めるというわけではなく、すこし骨が折れるというのが正直な感想である。しかし、それは裏を返せばたくさんの情報が載っており、それを吸収できる可能性があるということである。また、俯瞰して、全体の構成を見わたすと、それぞれが連関していることがわかり、そうするとさらに細部の理解も深まる。

 リベラルとは何か、もっといえばリベラルとは何であると考えられてきたのかについて知りたくて、かつ精密で本当は有機的な文章が読みたい人におすすめの、入門的であるが本格的な本である。

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