オナラことわざ辞典__1_

【オナワザ】#21 知らぬファンに知ったミーハー

今日は芸能人や作家について会話する際、誰もが経験するマウンティングについて徹底的に糾弾します
そのマウンティングとは。

「ファン度マウンティング」


よく「〜のファンなんですよ」と話した際に「あ、俺もその人すきだよ。◯◯読んだ?」と聞かれませんか?
そのときに、聞かれた作品を読んだり聴いたりしていないと、急にイキり出す人いますよね。この無意味な「イキり」こそ、私が本日糾弾したい『ファン度マウンティング』です。

この「ファン度マウンティング」は【触れた作品数】=【ファン度】といういたってシンプルな方程式で成り立っているヒエラルキーです。
そして【触れた作品数】とは【情報量】と言えるでしょう。


しかし、よく考えてみてください。情報量だけがファン度を決めるのでしょうか?そもそもファン度とは何によって規定されるのでしょうか?
難しい議題だと思うので、整理しやすいように「恋愛」に置き換えて考えてみたいと思います。

例えば好きな異性がいるとします。この場合「情報量」は何になるかというと、相手の好きなものや生年月日はもちろん、家族構成や過去の恋愛遍歴なども含まれるかもしれません。
とすると「ファン度マウンティング」の論理でいえば、相手の情報を知っていればいるほど「愛が深い」ということになりますね。

しかし、もしあなたが異性から「君の家族構成も調べたよ。あと家系図も国立国会図書館で調べたんだ。君の先祖は1876年の一揆に参加して…」と自分も知らないような血筋の話をされて嬉しいのでしょうか?
「愛が深いわ、ステキ」となりますか?いいえ、普通であれば「キショ!」の一言でしょう。


つまり「情報量」=「愛」ではないのです。
では我々はどういった時に「愛」を感じるのでしょうか。少し哲学的になってきましたが、徹底糾弾のため続けます。

これはあくまで私の考えですが、私が愛を感じるのは「自分のことをどれだけ考えてくれたか?」です。つまり自分が迷える時、辛い時、楽しい時も含めてどこまで自分に親身になってくれたかが大事と。
つまり辛い時に優しい言葉で慰めるべきか、敢えて叱るべきか、そっとしておくか、など最善の選択肢を取るためにどこまで考えてくれたかが大事ということです。

また、この「考える」「知っている」は全く異なります。考えることについては、考える本人の意思が多分に入る有機的な行為です。一方で知ることに関してはコンピュータでも出来るような無機質な行為になります。
膨大な個人情報を持つFacebookやTwitterを好きになりませんよね。つまりマウンティングを取ってくるヤカラは「僕君のツイート全部読んでるよ。暗記してきたよ。すごいでしょ。結婚して。」と迫っているようなものなのです。


ここまでの結論をまとめると、「愛」は「自分のことをどれだけ考えてくれたか」によって決まります。
ではもう一度作品とファンの話に戻って考えましょう。

先ほどの論理を踏まえると、「ファン度」は「作家のことをどれだけ考えているか」という風に置き換えることができます。
つまり、1つの作品だろうが1曲の歌詞だろうが、その中にまるで宇宙が広がっているかのように深く哲学していくことが大事なのです。それは作家の心情を慮る(おもんばかる)ことであり、彼らの伝えたかった真意を理解しようと努めることです。

その行為に終わりはありません。作家と対話して納得いくまで議論しようとも、作家自身になることはできないのですから。
ですが、その「姿勢」と積み重ねた「思考」こそが大切なのです。

そのため、1作しか読んでいない人がいたとしても、その人の愛は凄まじいものかもしれません。1作を哲学し続け、未だに結論が出ないからこそ次の作品に進めない。そんなことかもしれないのです。


にも関わらず、触れた作品数だけを取り上げて「え、アレ読んでへんの?」「〜は名作だったよ」とマウンティングする所業は愚の骨頂です。

(ここから偏見グッと強めます)

だいたい、作品数でマウント取る人間の多くは「たくさんの作品を読んでいる」ということ自体に価値を見出しており、インプット量にだけこだわっているので極めて浅はかです。
文化人を気取りたいんです。とりあえず飲み会の席で「太宰はね」と言いたいんです。とりあえずその名前を出しておけば博学に見えるし、女からモテるだろうと。

絶対に、「俺あんまりテレビ観ないんだよね」って言ってる。
絶対に、解説サイトに書いてることをまんま自分の意見として語っている。
絶対に、好きな映画「アメリ」って言ってる。
絶対に、ジャズ聴いてる。んで音痴

そんなヤツは『公園の砂場で枯山水が10個作るまで帰れまテン』すべきです。作っても作っても子供達から襲撃されればいい。
子供が破壊した残骸に「侘び寂びですねえ〜」って言ってやりたい。


それにインプット量を誇示するということは、それに比例してアウトプットのハードルも上がることを忘れてはいけません。太宰治も、川端康成も、三島由紀夫も読んだのに、話が面白くないようでは救いようがないじゃありませんか。

そういう人がいたら徹底的に
「え、今の発言はどう太宰治から影響受けてるの?」
「ほう、それは三島を引用するとどうなるの?」
「お、髪型は川端康成の影響ですか?」
と執拗に文豪イジりをかましましょう。


過剰にヒートアップしましたが、結局言いたかったことは「触れた作品数はファン度に関係ねえ!マウント取るな!」ということです。

というわけで、本日のことわざはコチラ。

知らぬファンに知ったミーハー

【意味】
特定の作品を知らないファンもいれば、知っているミーハーもいるので、触れた作品数でファンか否かは判断できないということ。

【例文】
さっきから「太宰の」って言ってるけど「暗夜行路」は志賀直哉だよ。知らぬファンに知ったミーハーだね。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。