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大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに行った

4/29から新潟県で開催中の「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」に行った。開催会期は秋まで、そして開催地域も世界最大級という芸術祭。地域とその暮らし、歴史に根ざしたアートの数々は見惚れるものが多く、名の通り大地の存在を強く感じるものばかり。観た作品についてつらつらと。


新潟に訪れるきっかけは、ジェームズ・タレル作の光の館に泊まるため。直島、熊本、金沢と様々なタレル作品を見てきたが、唯一“宿泊できる”タレル作品。年始に予約してたら偶然にも芸術祭の開催と重なり、とても嬉しい気分だった。

一見するとお寺、中はいい感じの旅館。なのだけど至るところにタレルのライティングが施してあってユニークなSF的な空間を思わせる。風呂も「Light Bath」なる作品で一切の生活照明がない中、浴槽の中だけモノが発光するという徹底的な作品性。


この建物で行われるのは光のインスタレーション。日没時、正方形に空いた穴で切り取られた空の色が緩やかに変わっていく。その移ろいを種々の色彩のライティングで際立たせ、いつしか夜になるという不思議な感覚を付与する時間。光の作用で時に青や紫や緑に空が染まるの、トリップ感あった。


日の出のプログラムは漆黒を印象付けさせる序盤、そして徐々に白んでいく空に様々な色を灯していく中盤(朝5時前なのに快晴の真っ昼間みたいな青さの瞬間もあった)、最後はいつしか明けきった朝を迎える流れ。没入感がすごくて上下の感覚がなくなる。心洗われるような、ぼーっとできる時間だった。



翌朝からは芸術祭へ。清津峡トンネル「Tunnel Of Light」。マ・ヤンソン/MADアーキテクツによるアート部分ももちろん見事な演出になっていたけど、何より渓谷と渓流そのものが美しすぎて。火山岩が積み上がって出来た形状とのことだけど、何らかの遺跡かのような神秘性があった。

トンネル自体のライティングも良かった。暗渠をゆくような、不気味な冒険感がある。何か見知らぬ存在が出現してしまう、よきゾワゾワ感があった。



「手をたずさえる塔」のほか、カバコフ夫妻の作品たちは等しく人の善を信じる作品が多く温かった。よりよくある、夢を見る、現実離れした作品が覗き込むのは間違いなくへ現実であるという面白み。


山を降りながら観た作品の中でも大量の色鉛筆が吊られた「リバース・シティ」のインパクトたるや。国名が書かれたカラフルな1本1本、見上げれば鋭利な先端がこちらを向く。ポップだけど暗示的。


松代「農舞台」はここだけでも満足できそうな程には展示物が充実。「ゲロンパ大合唱」も「かまぼこアートセンター」は農業道具がベーストレで、そもそも可愛い色合いの家が多いのでアートもよく景観に馴染んでる。とはいえ草間彌生の巨大作品と意味違いの自転車操業マシーンは異質さがあった。


中にはビュッフェレストランもありその建物自体もアート。そして施設内にも作品尽くし。大半が黒板で出来た「関係-黒板の教室-」は異次元すぎる空間だった。1本50円でチョークも買えて自由に書き込めた。恐らく即日消される刹那性もノスタルジック。


酒蔵の2階で増殖する酵母をイメージした切り絵「Invisible Grove-不可視の杜-」とか、その場所だからこそ意味をなす作品も多い。意外性のある場所に新たな面白さを付与する交感性があった。


不法投棄が行われていた地を整備して作られた禅庭「ポチョムキン」はインダストリアルな資材と実際に捨てられたゴミをも利用して枯山水を表現してた。憩いの場としての機能性とともに強い批評性。


民家を利用して作られた「Air for Everyone(金属職人の家)」。空に憧れ、自作で飛ぶ方法を考えた空想の人物の家とのこと。壁にはアコーディオン状の不思議な楽器が貼られてたり、風と音を愛したご主人の姿が目に浮かんでくる。ちょっと小林賢太郎的な世界観を感じた。「TAKE OFF」的な。


今日最も痺れたのは「最後の教室」。廃校の体育館を満たす藁と扇風機と電球、そして明滅を繰り返すライティング。不在の中に確かな在を感じる。教室や廊下にもいくつもおばけ的な気配が漂っていて、いるのにいない、いないのにいる、と思うことの愛しさとか温かみを思ったりした。


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