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ジブリ映画「君たちはどう生きるか」異世界についての一考察

映画館で観るつもりはなかったのですが、賛否両論があるというので、がぜん観る気になり、先週ジブリ映画「君たちはどう生きるか」を観てきました。

私としては、事前情報がない分、自分なりの解釈ができる点が自由で、ワクワクしました。「先入観を持たずに観てほしい、そのため宣伝をほとんどしない」というジブリの方針が理解できました。

以下ネタバレを含みます。ご覧になっていない方は、事前情報なしに一度映画館に足を運ばれることをオススメします。

さて、酷評も多かったこの映画。

確かに一回さらっと観ただけでは理解に苦しむ映画となっています。私も映画館を出た時は「?」がたくさん浮かんできました。「わからない」という評価が多いのも納得しました。

でも、宮崎駿監督のこと、何かのメタファーになっているに違いない。一段階か二段階抽象化すれば、何かが見えてくるのではないか。

原作でも、以下のような記述があったではないか。

あたりまえのことというのが曲者なんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。

小説「君たちはどう生きるか」


手強い数学の問題に取り組む時のような、すっきりさせたいモヤモヤ感や、納得のいく解にたどりついた時のワクワク感などを想像し、帰りの道すがら、思考実験にどっぷりはまっていきました。

過去の宮崎作品のテーマや、最近取り組んでいる菌ちゃん農法からの気づきをふまえ、一つ一つの場面を思い出してみると、うーん、なるほどあれはこうなっていて、これはこうなっていて、と夜も眠れなくなりました。

自分の解釈と原作の整合性を確認するため、再度小説版と漫画版を詳しく読んでみました。

そして、ざっとWebを検索した感じでは、眞人を宮崎駿監督となぞらえたり、眞人の深層心理とトラウマの克服などについて宮崎駿監督の心理状態とからめて分析されている方など、いろいろな方がいてびっくりしました。宮崎駿監督のプロフィールや過去の作品についても、ここまで詳しく調べている人がいるんだなぁと感心しました。

一方私は、宮崎駿監督のこともよく知らないため、文学の研究でいう作家論のアプローチはできないですし、あくまで過去作品と本作品、原作から得た解釈をしようと思いました。

また、眞人のメンタルの成長についての解釈は他の方にお任せし、本稿ではもう一つの側面について書きたいと考えました。

あくまで、私個人の勝手な妄想であり拡大解釈ですが、自分としては納得できたため、書いてみようと思ったのです。

地下世界のメタファー


宮崎作品では、環境破壊への警告、反戦、子供達へのエールなどが、共通のテーマになっていることが多いと感じますが、最近菌ちゃん先生こと、吉田俊道先生にお聞きした地下世界のお話が、この映画を解釈するきっかけとなりました。(一部ブログで書きました)

それは、母なる大地、地下の世界が枯れつつあるという現実です。

我々人類は、木を切り、森を開き、鉱物を取り、人工物で地球を覆い尽くしてきました。化学肥料や農薬は土壌や地下水を汚染しています。地上の世界は我々にも見えますが、地下の世界のことは研究者を含め、ほとんど何も知らないというのが現状です。特に微生物については既知のものは1%ほどとのこと。つまり人間にとっては異世界のようなものです。そして、見えない、知らないがゆえに地下世界を汚染してきたともいえるのではないでしょうか? 具体的にいえば、地中の微生物や菌が住みにくい環境をつくってきたということです。

ナウシカの原作では虫や粘菌が詳しく描かれていたため、宮崎駿監督はおそらく菌や微生物についてはかなり勉強されてきたと推測します。

眞人がアオサギにつれていかれた場所が、妄想とも異世界ともとれる、地下世界と考えると、さまざまなことが付合するのではないかと考え、考察を始めました。

塔の存在

地上の世界が”生”にあふれた世界とすれば、地下の世界は”死”の世界ともいえます。多くの生き物は、死んで土に還るためです。落ち葉や生物は微生物に分解されます。そして、時を経て命に生まれ変わる。

この過程が、生きたものは食べられない地下世界の住人や「わらわら」と整合します。地下世界では、キリコさんが生き物(大きな魚)を捕まえてきて捌いてあげない限り、地下の住民達は食べることができないのです。これは死を食べて生に変換する、分解者である微生物や菌の性質であり、生と死を司る彼らの役割ともいえます。

生と死を司る存在としては、もののけ姫のシシ神もそうですね。

しかし、天動説から地動説に発想を変えるのが難しかったように、地下の世界が地上を含めたこの世界にとって大きな意味を持つこと、地下にも大きな生態系があることに気づくのは難しいものです。忙しく立ち回るビジネスマンが、道端の小錦草に意識を向けることはないのと同様に、普段意識されることはありません。

そこで地下の世界と地上の世界をつなぐ象徴が塔となります。私にとっては、畑が塔と同じ役割を担ってくれたと言ってもいいかもしれません。

一方、本作でも塔が封印されたように、虫や菌の世界はむしろ見たくない存在かもしれません。菌などを忌み嫌う傾向は、このコロナ渦でエスカレートしたと言えるでしょう。

そんな一般的には疎んじられる場所だからこそ案内人が必要となります。

そして地下世界への案内人として描かれているのが、アオサギです。

北海道アオサギ研究会の松長克利さんによれば、アオサギはもともと「ベナウ」と呼ばれる神で、太陽神ラーだけでなく、冥界を司るオシリスと深く結びついているということでした。まるで地上の”生”の世界と地下の”死”の世界を行き来する存在に相応しいではないですか。以下、アオサギへの愛情あふれる論考是非、ご一読ください。

イメージとしてのアオサギ
https://www.greyheron.org/wp-content/uploads/2012/05/heron-as-image.pdf

北海道野鳥愛護会会報『北海道野鳥だより』第165号(2011年)


さて、本作では奇妙な姿のサギ男。怪しさ満点ですが、奇妙な振る舞いが、人間を非日常空間へ誘うきっかけになりうるということもあるでしょう。

同時にアオサギはゲートキーパー(門番)の役割も果たしています。資格のない人間は排除し、資格のある人間のみを判断して選ぶ。そして、その資格があるとすれば、一部の子供くらいでしょう。トトロを見ることができたのがサツキやメイだったように、曇りのない”まなこ”をもち、別の時間軸で動いているためです。

本作では資格を満たしたのは大叔父(大人としては例外だが、本を読みすぎて頭がおかしくなったから行けたのか?)や幼き母(久子)、眞人くらいだったわけです。

あと一人地下世界へ行けるとすれば、義理の息子から受け入れられない深い悲しみを背負った義母(夏子)です。地下世界は生と死が交錯する場、眞人に傷を負わせてしまった罪悪感と身体の不調(つわり)も相まり、ふと足を踏み入れてしまうということは十分ありうるのではないでしょうか。

インコとペリカンのメタファー

インコとその軍団を率いるインコ大王やペリカンは最初、悪役として登場します。

インコは、貪欲な大食漢で他の生物を絶滅させるほどの勢力に膨れ上がります。作物を根こそぎ食らう飛蝗の群れを彷彿とさせます。

地中にはバクテリア(細菌)だけでなく、放線菌、糸状菌などさまざまな微生物が生息しています。それぞれは牽制しあったり、共生しあったりしながらバランスをとっているもの。これを土壌微生物の多様性といいます。

多様性が失われバランスが崩れた状態、その中で他者(鍛冶屋)を駆逐した種、それがインコではないでしょうか? また外来種であるインコは、海外からもたらされたもの(例えば化学肥料)を象徴しているのかもしれません。理由は、以下のとおりです。

もともと自然界では、弱った生き物を虫が食べて分解し、腐ったものをバクテリアなどが分解します。さらに、糸状菌(キノコの子)は、なかなか腐敗しない固い木などを分解してくれます。それどころか、糸状菌は窒素固定細菌という空気中の窒素を地中に固定してくれる存在を呼び寄せます。その働きにより、肥料がなくても木々や植物が元気に育つのだそうです。(詳しくは菌ちゃん先生の著書や動画をご覧ください)

一方、化学肥料は植物にとって必要な窒素やリンなどの養分を化学的に精製してつくったものです。表面的に見れば植物にとって問題ないと感じますが、微量に存在するミネラル分などが入っておらず、植物にとってバランスの悪いものです。そして過剰な供給は植物の自力で育つ力をそこなうことになります。それは植物に対する影響だけでなく、他の菌達を抑制することにもなるそうです。もちろん地下水や土壌を汚染し、生態系を破壊します。

インコが何かを作り出す象徴である”鍛冶屋”を駆逐したのは、これらのメタファーではないかと考えたのです。

もちろん微生物に対する私の勉強不足なだけで、地中にいる生物の中で、インコの役割に当てはまる存在がいるのかもしれません。例えば、豆科の根には根粒菌がつくそうですが、根粒菌がいると糸状菌などを寄せ付けなくなるそうです。あるいは今は遺伝子組み換えの微生物などが存在するのかもしれません。

一方、ペリカンは、給餌の習性から自己犠牲の象徴とされていたそうですが、本作ではどこからか連れてこられたものという設定です。

最初は「わらわら」を食べる悪者として描かれていますが、老ペリカンの述懐から、ペリカン達にも事情があったことがわかります。この世界を出ようと空高く飛び上がるも叶わず、囚われの身になっているといえます。やむなく「わらわら」を食べて生きながらえてきた存在。そんなペリカンを象徴するのは、害虫を退治することを意図して連れてこられたにも関わらず、益虫や善玉菌までも殺し、人間にも悪影響を及ぼす「農薬」を象徴していると考えるのはどうかと思いました。

あまりに化学肥料や農薬を悪者にしてしまいましたが、本作でインコやペリカンが地上世界に戻って無害化したように、これらの存在自体は悪ではなく、他に害をもたらす仕様と運用の問題と言えるのではないかと思います。

世界の理(ことわり)とは?

崩壊寸前ともいえる地下世界ですが、不安定な積み木を積み、ギリギリの均衡を保ってきました。

ちょうど本作の時代は戦中戦後。何十万人もの人間を一瞬で殺傷する原子爆弾が開発されました。ソドムとゴモラを滅ぼした火のように、人類は神の所業を手に入れたといえます。

そもそも我々人類の科学の歴史を振り返ると、世界の理、宇宙の理を解明する旅であるといえます。しかし純粋な研究心が必ずしも善意のみに使われてきたわけではありません。政治や軍隊、事業家がそれに目をつけ、自らをも破壊するために利用してきました。

20世紀以降は、人類を絶滅させるだけの科学力と、人間の理性の中でギリギリの均衡をとってきたといえます。

眞人の大叔父は、汚染された地下世界を取り戻すしくみの解明に取り組んできました。悪意に染まっていない石を探し、世界の理を解明しようと、積み木を積んで世界のバランスを取ろうとしてきました。それが唯一の方法だとでもいうかのように。人類が手に入れたか細い知識と能力を用いることしか、世界の秩序を取り戻す方法はないと考えたのかもしれません。

確かに今の科学、データ至上主義の論理からはそのようなアプローチしか思い浮かびません。

大叔父が人類最高の頭脳の一人であり、量子力学への道を開いたアインシュタインに似た風貌(岡田斗司夫さんが言われていて、なるほどと思いました)を設定されたのもそういった意味があったのかもしれません。

なぜインコ大王は積み木を破壊したのか?

世界の理を構成する積み木。悪意のない石によって構成された積み木をうまく積むということを続ければ世界の崩壊は免れる。しかし、感情と衝動にとらわれたインコ大王によって破壊されてしまいます。

インコ大王は、なぜ積み木を破壊したのでしょうか? 

自然界では突然変異として、あるいは確率論的に意図と反することが起こることがあります。または、人為的に生み出した当初は想定できていない悪影響を及ぼすということもあります。インコ大王の行動はそれを象徴していると考えるとしっくりきます。

人類が積み上げてきた科学的知見、それをさらに積み上げて世界をコントロールしようとする傲慢で小賢しい人類の営みなど鼻で笑うかのように、時として自然は我々に鉄槌をくらわしてくるもの。我々の祖先は、それらあらがうことのできない存在を「神」として敬ってきました。

人類の叡智が膨大で、科学が万能とさえ思えるような現代においてさえ、森羅万象を目の前にすると、なんと人間は何も知らないのか思い知らされることでしょう。

これは科学の道を追求することが無意味ということではありません。森羅万象を知りたいという人の欲求は止められないためです。

科学を追求することと、それをどう運用するかは別問題です。科学の成果を自分の利益のためだけに利用しようとする姿勢こそが問題なのでしょう。

科学の成果を悪意をもって運用されないよう、我々国民は政治への監視を強め、半分に満たない投票率を上げるため投票場に行く必要があると考えます。

眞人が大叔父の提案を断った理由

眞人は、大叔父から世界の管理を引き継いでほしいと言われますが断ります。そして、自分の世界に帰っていくことを決めます。

我々が子供の頃(昭和)の物語では、世界を救うために危険を顧みず敵に向き合うヒーローやヒロインが求められていました。初期のジブリ作品でもそういったプロットで語られている作品もありました。

その路線であれば、当然インコ大王と戦い、世界を救うために世界の管理を引き継ぐ選択をするのがヒーローである眞人の取るべき常道と感じます。(特に私のような昭和のおじさん世代にとっては、そのほうがわかりやすい)

一方、ささやかながらも周りを幸せにしようとして精一杯自分のやれることに奮闘し、主人公の成長をメインで描く「魔女の宅急便」のような作品もありました。戦いがあったとしても、悪者にすら傷つけられた過去や悲しみがあることを描くOne Pieceや鬼滅の刃などのように、勧善懲悪のヒーローものではない世界観です。

そのような経緯をふまえると、本作での眞人の選択は、単なるヒーローものへのアンチテーゼではないと考えます。

小説版にはないのですが、漫画版の「君たちはどう生きるか」には以下のような記述があります。

「世の中を回している中心なんてもしかしたらないのかもしれない。
太陽みたいにたったひとつの大きな存在が世の中を回しているのではなくて
誰かのためにっていう小さな意志がひとつひとつつながって
僕たちの生きる世界は動いている」

漫画版「君たちはどう生きるか」

眞人が現実世界に戻ってきた時にポッケに入れていた小さな石。
それは、眞人の「意志」を象徴しているのではないでしょうか?

世界を救うのは、誰か一人の英雄でも、大科学者でも、宇宙を支配する方程式でもなく、誰かのためにっていう一人一人の小さな意志。

眞人が最後に「友達をつくります」と言ったのは、眞人の年齢の子にとっては、切実かつ現実的な選択です。ヒーローものに慣れきった我々から見れば一見利己的な選択に思えますが、そもそも眞人くらいの年齢の普通の子に、世界を救うヒーローであることを求めるのは酷です。

自分の周りの大切な人のことを想って何かをしようとする小さな意志、それが世界を救うことにつながっているんだよ、というメッセージは、受け取る我々としても気が楽ではないでしょうか?

サイコロの目やコインの裏表のように、一人一人の意志はバラバラにみえて、全体として見ると一定の規則性が現れてくるという確率論的な側面や不確定性原理などに準えると、私としてはしっくりきました。

原作をふまえた本作からのメッセージ

最後にあらためて原作を確認し、本作からのメッセージを考えてみたいと思います。

原作では、大きく2つのテーマがあったと考えています。

1つ目は、世界というのはどのように成り立っているのか、という世界の見方に関するテーマです。

人間分子の関係、網目の法則〜粉ミルクが日本に来るまで、ニュートンによる万有引力の発見のプロセス、ナポレオンの業績、などです。

2つ目は、立派な人間になるためのはどうあればいいか、つまり「修身」のテーマです。

油揚げ事件の件や、浦川君の家に行った時のこと、さらに雪の日の出来事を通して、コペル君が悩み、考え、おじさんの助言を受けながらも自分で自分のことを決め、大きく成長する様が描かれています。

世界の成り立ちを知り、身近で起こる出来事から学び、それぞれが混じり合いながら人の成長につながっていく。その両方の側面から普遍性のある教訓が語られている点が、原作を名作たらしめていると考えます。

本作では、意図せず異世界(私の解釈では地下世界)に呼び込まれた眞人とその精神的な成長、その成長によって決定された意志が本質的な世界の均衡につながっているという点、それが「君たちはどう生きるか」という原作の名を冠した映画としてマッチしていると思いました。

以上のことをふまえ、原作、そしてジブリの過去作品(といっても全てを観たわけではないのですが)、そして本作から、私はメッセージを3つ受け取りました。

1つ目のメッセージ

人間は見ず知らずの他人との間にもつながりができている。その関係を自然界を含めた世界全体に拡張し他の生物を含めたとしても同じことがいえる。この世には目に見えない世界があり、それが目に見える世界にも大きな影響を与えている。

人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに網のようにつながっている。
見ず知らずの他人同志の間に、切っても切れないような関係ができてしまっている。誰一人、この関係から抜け出られる者もない。

小説「君たちはどう生きるか」

"土に根をおろし、風とともに生きよう。
種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう"。
どんなに恐ろしい武器を持っても、
たくさんの可哀想なロボットを操っても、
土から離れては生きられないのよ」

天空の城ラビュタ

2つ目のメッセージ

君たちは自分で決定し、自分で成長することができる。

僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから誤りを犯すこともある。
しかしー
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。

小説「君たちはどう生きるか」

3つ目のメッセージ

誰かのことを想う一人一人の小さな意志が世界を形作っているのである。だとしたら、君はこれからどう生きますか?

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。
そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

小説「君たちはどう生きるか」


君たちはどう生きるか?

これからの人生の後半戦を「どう生きるか?」

この映画をもとにして、あらためて考えるきっかけをもらいました。

映画を観てからここ1週間ほど、いろいろ考えては調べ、自分なりの考えをノートに書き、さらに調べて考えて、それを文章化する作業は本当に愉しかった!

あくまで私個人の解釈なので、この作品の解釈はこれしかない、というつもりはありません。誰しもそれぞれ納得する解釈があっていいはずです。なんといっても、公式には事前情報や解説がほとんどないんですから。

文章が稚拙だろうが、独りよがりの解釈であろうが、自分なりの意見、自分なりの意志を決めるプロセスはそれ自体が愉しい。それは、映画の解釈に限らず、人生全般に当てはまる気がします。

そして私は、この学ぶ愉しさ、考える愉しさを子供達に伝えたいのだな、とあらためて思いました。

たとえそれが難しいチャレンジだとしても。そして、小さい行動だとしても。よりよい世界につながっていることを信じて。


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