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文化を失うとは、どういうことか。①

島根県の特産品である石州(せきしゅう)和紙は、1300年前に柿本人麻呂が国守としてこの地へやって来たときに伝えたとされています。
その技術は徐々に国中に伝わり、農民の農閑期の仕事として盛んに行われました。

和紙の主な原料である楮の一般的な繊維長は8ミリであるのに対し、この土地で育てたものは10ミリ程度ということで、土地との相性も良く、石州和紙が盛んに製造されたのにはそういった環境的要因もあったようです。


石州和紙の産地であるこの地域では、この和紙を原料とした「紙布(しふ)」も多く生産されました。
江戸時代には年貢として米と和紙を納めるように定められたため、農地のほとんどが稲作と楮の栽培に充てられたそうです。そのため、布にするための他の繊維素材(大麻や木綿など)を作る余裕はなく、その結果として生活に必要な布を和紙でまかなうことになりました。

石州和紙の工房が今も残る三隅町というところから、車で1時間ほど行ったところにある「金城民俗資料館」には明治中期の紙布の農作業着が残されています。農作業着なので、強い陽射しや、雨や雪、そして泥で汚れたりしたはずですが、そういった着用にも耐えて100年以上先まで残る堅牢さが紙布にはあるということです。


「和紙から布を作る」と話したときに、まず「濡れたら溶けそう」と言われるのですが、上記の通り水に強いし、さらに驚くことには耐燃性にも優れていて、こたつの火が炭火だった時代のこたつ掛けとしても使われていました。
その耐燃性の高さというのは、紙布の製造工程に秘密があります。それは、糸を作るときに紙をカッターで細く切って糸にするためです。
どういうことかと言うと、例えば木綿はふわふわしたワタに回転を掛けて一本の糸にするため、拡大鏡で糸を見ると表面に毛羽立ちがあり、その糸で織った布も、やはり表面に毛羽立ちは残ったままになります。これは、ほかの繊維素材でも同じことで、布に毛玉ができるのは、目には見えなくても布の表面に毛羽立ちがあるためです。

その点、一度和紙になって、繊維が落ち着いているものを切って糸にする紙布は表面に毛羽立ちがなく、毛玉もできません。
火の粉が布に着いてすぐに燃えるのは、布表面の細かい毛羽立ちがまず燃えるということなので、紙布は燃えにくい布と言えるのです。
…素晴らしいですね!笑

しかし、布団地としてはあまり肌触りが良くなかったようで、前出の「金城民俗博物館」には、肌に当たる部分のみになけなしの木綿布を縫い付けたものもあります。


生活に必要な布をすべて紙布で…と聞くと、なんて贅沢な!と思ってしまいますが、おそらく当時のかたにとっては、紙布は「仕方なし」の素材であって、本当は麻や木綿の布を作ったり使ったりしたかったのだと思います。

それでも山陰の厳しい冬を乗り切るためには、何かを身に纏う必要があり、布一枚の差が生死を分けたと言っても過言ではないはずです。布というのは、それだけ鬼気迫るものでありました。
当時の人たちが紙布を作ることと、私が今紙布を作ること…その精神性の差はどうあがいても埋めることはできません。いくら想像力を働かせたところで、到底至ることのできない境地です。


石見地方の風土や政治的理由から、人々の暮らしと共にあった紙布ですが、大正初期の記録を最後に、そのあとの資料は残っていません。

廃藩置県により年貢として紙を納める必要がなくなったことから、徐々に紙布の生産量も減っていき、大正初期に作られた布も、作られた紙糸が残っていたのでそれで織っただけのことかもしれません。さらに産業革命によって大量の布の生産が可能になったこと、都市生活中心型の生活様式への変化によって島根から人口が流出したことなどの理由で、石州和紙による紙布の文化が途絶えました。(石州和紙の生産は今も続いています)

時代の移り変わりのなかで、生活のなかから紙布が消えるのは当然のことだったと思います。なにしろ、お金さえ払えば、好きなときにもっと軽くて可愛いデザインの布が買えるなんて、とても魅力的です。
布を作る労力は、お金を稼ぐための労働に変化していきました。

紙布を作ることをやめて、そんな文化があったことをすべての人が忘れても、今の私たちはそれなりに楽しく、「豊かな」日々を暮らすことができています。
ということは、ひとつの文化が無くなっても、私たちには関係のないことなのでしょうか。まったくの無傷だと言えるのでしょうか。

と、ここから本題なのですが…なんだかもういっぱい書いたので続きは多分明日書きます。笑
文化が失われるとはどういうことか、そして私が立てた仮定とこれからの実験について。


◎作業風景instagram https://www.instagram.com/iwami_ori_yuy/

島根県石見地方、川本町という人口3500人の小さな町地域おこし協力隊として、染織をしています。協力隊の任期後に作家として独立し、「石見織」を創立するために、日々全力投球。神奈川県横浜市出身。