弱いモノいじめの根本的な解決は人間関係の公平性の確立だ。

『加害者が学校教員を始め、大学教授、医師や弁護士、慈善活動家など、社会的信頼が高く「先生」と呼ばれる地位にあるケースは決して珍しくはない。~「先生」と呼ばれる人々や有名人による不祥事は、世間から厳しく批判され、社会的制裁を受けることもある。社会的地位が高ければ高いほど、自ら犯した加害行為のみならず、家族が犯した罪の責任まで問われるのが日本社会である。尊敬される立場に在る人ならば、公私ともに完璧でなくてはならないという考えには無理がある。「この人なら大丈夫」という過信は、さまざまな場面で、問題の発覚を遅らせることにも繋がる。「先生」と呼ばれる人々こそ、緊張感を要する環境におり、常に世間の目に晒されているストレスは大きい。責任を分散できるような環境にいない人は、困りごとが生じても誰にも相談できず、問題を抱え込んでしまう傾向がある。~それでも特に問題を起こさず生活している人々は、他人に依存せずストレスに対処できる自律した人である。加害者たちは、社会的評価とのギャップから生ずる不全感を自分より弱い相手を支配することで解消しようとする弱い人間なのだ。加害の原因となっている不全感への対処を考えない限り、加害行為は繰り返される。不祥事が起きると、組織は監視を強化することで再発防止を図ろうとするが、逆に加害行為の陰湿化を招くおそれがある。加害者たちは、学校でのいじめや職場でのハラスメントが人権侵害に当たるということを理解していないわけではない。頭では理解していても、感情が追い付かないのだ。監視の目が厳しくなれば、目の届きにくい親密圏、家庭などを加害現場に選ぶのである。神戸市須磨区の教員いじめ事件の加害者たちは、自分たちが行った加害行為について、「被害者との関係では許されると思っていた」と説明しているという。つまり、相手によっては、暴力や人格否定も許容されると考えていたということだ。被害者が抵抗しないことを理由に、加害行為が正当化されるわけではない。この程度なら、この関係であればと、グレーゾーンを設ける限り、被害者を無くすことはできない。暴力・人格否定はいかなる間柄でも許されないという理解を徹底しなければならない。暴力や人格否定を伴う厳しい指導があったからこそ、勉強やスポーツで成功できたと考えている人もいるかもしれない。しかし、乱暴な方法を用いなくても成功に導く方法はいくらでもあり、現代の指導者はその術を身に付けていなくてはならない。恐怖を与えて精神的に追いつめる方法は、短期的な成功を生むことがあるかもしれないが、自殺や加害行為を生むリスクの方が高いといえる。いじめは、決して許されるべき行為ではなく、加害者には厳しい処分が下されるべきことは言うまでもない。それでも、加害者が生きる権利を奪う権利は誰にもないのだ。加害者が特定されると、一斉に個人情報の暴露や誹謗中傷が行われ、「加害者を追いつめることこそ正義」と言わんばかりに攻撃はエスカレートする。しかし、既に反論が許されないような状況に追いつめられている人をさらに追いつめる行為こそ「いじめ」ではないだろうか。行き過ぎた制裁は、一時の応報感情を満たすだけであって、被害者の救済にはならない。加害者たちは、家庭や学校、職場など、過去に必ず、暴力や人格否定を自ら受けたり、面前で行われていたことによって間違った学習をしてきたはずである。体罰やハラスメントが横行していた環境で過ごした人々の中には、暴力や人格否定による対処が身についてしまっている人々もいる。神戸市須磨区の事件では、動画という動かぬ証拠によっていじめの事実が明らかとなったが、被害者が泣き寝入りせざるを得ない状況にあるケースも多いのではないだろうか。~相手を貶める冗談やヘイトスピーチが、一定の人々から人気を集めることがある。被害者が深く傷ついていても、周囲の肯定的な反応によって加害行為は正当化されエスカレートする。社会には、「いじめの種」と言えるような言動が溢れており、行為の正当性について常に議論していかなくてはならない。いつのまにか加害行為に加担してはいないか。加害者の視点から事件を見つめ直すことも重要ではないだろうか。』

グレーゾーンの存在を否定するのは根本的な解決にはならない。グレーゾーンはヒトがアナログである限り存在する。弱いモノいじめの根本的な解決は人間関係の公平性の確立だ。嫌なことを嫌だと言える関係がフェアな人間関係だという事をすべてのヒトが肝に銘じて実行するのだ。

「先生」という病〜教師、弁護士、地域の名士たちが加害者になる理由
社会には「いじめの種」が溢れている
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68346

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