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確定申告の季節になると父を思い出す。50年間「税」と向き合ってきた父の記憶

「確定申告は、自分が1年間、どれだけ頑張って働いたかを振り返るための大切な機会なんだ」

梅が咲く頃になると、父はよくそう言っていた。

僕の父は税理士だった。
父は2016年、69歳で他界した。

確定申告の季節になると、僕は父を思い出す。

父は国税局へ勤務し、和歌山の税務署長を務めた人だった。
定年後、税理士として起業し、大阪市内に小さな税理士事務所を構え、起業したばかりの僕の確定申告を手伝ってくれていた。

父と一緒に、帳簿を眺めながら申告書用紙に記入したのは、大切な思い出だ。

僕は父を尊敬していた。
父は「自分に厳しく、人に優しく」を地で行く人で、義理人情の人だったから。

父は菟田野町(うたのちょう)という奈良の宇陀郡にあった小さな町から税務大学へ入り、国税局へ勤務したあと、和歌山にある粉河(こかわ)税務署の署長となった。

定年後、税理士として個人事務所を立ち上げ、69歳で他界するまで税と向き合い続けた人だった。

税金と聞くと、ネガティブな反応を示す人は多いと思う。
とくにこのシーズン、「確定申告憎し」と思いながら帳簿と格闘している人たちは多いだろう。

でも、確定申告を嫌いにならないでほしい。
確定申告は誰のためでもなく、自分のためにおこなうもの。
自分の頑張りの総決算でもあるのだ。

そんなことを教えてくれた父について、振り返ってみようと思う。


※今回の記事は、アドビさんのスポンサード企画「僕と私の確定申告」に参加して書いています。




父は真面目な人だった。

「自分に厳しく、他人に優しく」を自身の指針としていた父は、誰よりも早く出勤し、出勤したらまずオフィス中のデスクの上を自ら拭いていたらしい。

「皆が少しでも気持ち良く仕事ができるように」との配慮だったようで、そのことを父は誰にも言っていなかったとのことなので、おそらく父の同僚は、まさか父がそのようなことをしていたとは知らないであろう。

人に評価されようがされまいが、見えないところで人のために動くことも「働く」ことなんだと、父は教えてくれた。

また、何か贈り物をいただいたのなら、何よりもすぐに御礼の電話をしなさいと言うのも口癖だった。

学生時代、一度だけ父に本気でぶたれたことがある。
反抗期だった僕が母に心ない言葉をぶつけたとき、「お母さんに何てことを言うんや!」と思いっきり平手打ちされた。
父にぶたれたのは、あのときが最初で最後だった。
(逆に幼い頃は、母によくひっぱたかれた)

父は気遣いの人でもあった。
寒い冬、自宅にあるストーブは僕たち兄弟の奪い合いになっていたが、父はコタツに入りはしたが、「子どもたちが寒いだろうから」と一度もストーブに当たっていなかったと思う。

誰かに誘われると、できるだけ時間を空け、飲みに付き合い、カラオケにも付き合った。
僕は父がカラオケで歌う姿を見たことがなかったのだけれど、告別式に参列してくれた父の昔の同僚や職場の人たちは皆、「松尾さんは歌が上手かった」と言っていた。

飲み付き合いが原因なのか、父は生涯を通して10回近く手術をした。
その手術とはすべて癌の手術だ。

父は30代のとき、毎日遅くまで仕事をしていたらしい。
昭和50年代頃の日本は、今でいうワークライフバランスという言葉などなく、がむしゃらに働くサラリーマンによって支えられていた。
母曰く、その頃の父は深夜にタクシーで帰宅し、少し寝てから6時に起き、朝7時頃に出勤していくのが常だったらしい。

深夜に帰宅する理由の一因には、人付き合いもあった。
父は人に好かれる性格だったので、仕事が終わるたびに上司や同僚からよく「まっちゃん、焼肉に行こうや」と誘われ、毎日のように焼肉を食べ、晩酌に付き合っていたらしい。

父もお酒は好きなほうだったが、そんな日々が続くと、身体に異変は起きる。
37歳で癌を発症した。

検査後、医師の顔色を見た父は医師に「正直に言ってください」と告知をお願いしたという。
そして自身が癌であると宣告された父は、不安な気持ちを押し返す形で開口一番、「すぐに切ってください」と言った。

そうして父は入院することになった。



手術は無事成功し、数ヶ月の療養後、父は職場復帰することになった。

しかし、それからが父と癌との一生をかけての戦いの始まりだった。
父は数年ごとに身体にメスを入れるようになったからだ。

最初の大きな手術後、定期的な検査を受けるようにしていた父は、癌と思われる腫瘍が見つかるたびに「すぐに切ってほしい」と医師に頼んだ。
潔さと勇気が父の特長だったが、入院するたびに父の身体にはメスの痕が増えていった。
(もちろん、医師と相談しての手術だったため、医師も最善の策としてのオペを選んでいたのだと思います)

僕が中学生の頃、父は「お父さんは、こことここの臓器がもう無いんや」と笑いながら、話してくれたのを憶えている。

そんな父が2016年の12月、69歳という年齢でこの世を去った。

身体中にメスを入れ続けた父は、2014年頃から、明らかに体調が悪そうな日が増えていた。
僕は実家に戻るたびに「オトン、しんどそうにしているな」と感じていた。
だから、2016年に父が再び入院をすると聞いたとき、「これが父の最後の入院になってしまうかもしれない」という不安があった。

そうならないためにも、父に生き抜いてもらいたい。
そのために、僕は父にひとつの提案をした。
それは「入院中に自伝を書いて、退院後に出版してみないか?」という提案だった。

父は自分のことをあまり語らない人だった。
父のことはいつも母伝いで聞いていて、僕は母から、父が「努力の人」であることをいつも聞いていた。
母曰く、若き日の父は、ドラマ化できそうなくらいの苦労人であったらしい。
そんな父の人生を、父が綴る言葉から追体験してみたかった。

また、その頃の自分はひとりの経営者として、仕事で悩むことが増えていた。
そんな自分が壁を乗り越えるためにも、父がどのように仕事に向き合ってきたのかを知りたいと思っていた。
そのことも自伝を書いてもらいたいという理由だった。

そうして綴ってもらったのが、これらのページだ。
父が闘病中に綴った言葉は、A4のキャンパスノート、40ページ分に達した。

今こうしてこれらのノートと向き合えているのは、今回、アドビさんの「僕と私の確定申告」という企画に参加することになったからだ。

確定申告をテーマにした記事にもかかわらず、自分の父との思い出を綴っているのは、企画を私物化するようで申し訳ない気持ちだが、いつか、確定申告という言葉をテーマに父のことを書いてみたかった。

父が残した自伝ノート。
僕は父の亡き後、このノートになかなか向き合えなかった。



ノートを読むと、6年間かけて心の中に仕舞い込んだ淋しさがまた顔を覗かせるのではないか。
このノートには、父の生きてきた軌跡が綴られている。
このノートの中にいるのは、まさに生きていた頃の父だ。

そう思うと、父が残した言葉とじっくりと向き合えなかった。

しかし、今回の企画をきっかけに、僕は自分の知らない父と会ってみることにした。

ノートを読むと、涙でノートが濡れてしまう気がした。
だから、父のノートをデジタル化して読むことにした。
スマホのカメラでページを撮影して画像化し、AcrobatでひとつのPDFにした。

このノートは本来、僕が父の自伝として発表しようとしていたものである。
だから今回、父が病の床で残した言葉を、自分のnoteに記しておこうと思う。

税の裏側には、税を守る人たちの人生がある、ということを、多くの人に知ってもらえれば幸いです。


■父、安起の自伝

■私の生まれ

「国の始まり大和の国、郡(こおり)の始まり宇陀郡(うだごおり)」という古謡が詠まれた菟田野(うたの)の写真館の長男として、私は生まれた。

菟田野とは、奈良県の宇陀市に位置する古き町である。

当時、写真館は奈良県内でも数えるほどしかなく、「奈良県 松尾写真館宛」と書けば、私の家に手紙が届いた。

私には2才上の姉がいたが、姉は幼くして病死したらしい。
その姉の死の直後に生まれたのが私だった。

写真館という家業の仕事柄、幸いにも私の幼い頃の写真も残っており、写真の中の私は、乳母車にヨダレ掛けをして着物姿で乗せられている。

まさに終戦直後の子どもの姿そのものだ。
坊ちゃん刈りの頭で、でんでん太鼓をもたされている姿が郷愁を誘う。

私が生まれた頃は、どこの家も大家族だった。
しばらくして弟が生まれ、両親、私と弟、そして祖母と叔父の6人家族となった。

祖母は私をよく墓参りに連れて行った。
幼い私には誰の墓かはわからなかったが、かなり昔の人の墓もあり、苔のむした一つの石碑に何人もの名前が彫られていた。

お墓には、家の裏の畑で育てた花を摘み取り供えていた。
お水は家からバケツで運ぶのだが、坂道を登る途中でこぼれてしまい、坂の上に辿り着いたあとは半分に減ってしまっていることがよくあった。

私の家は兼業農家であったことから、幼少期はよく乳母車に乗せられて田畑へ行った。
町には、田畑を耕すために牛を飼っている家が何軒もあり、農道をゆったり牛を連れて往来する風景を憶えている。

春は蝶、夏は蛍とカブトムシ、秋はトンボと遊んだ。
とくに夏の夜には、家の灯を目指して飛んでくるカブトムシやコガネムシが部屋の裸電球の周りを音を立ててガサガサと飛び回っていたのが、今では懐かしい。

5歳になった私は、近くの保育所に通うようになり、ここでF君という私にとっての親友と出会った。

F君とはその後、小学校は学校区の関係から別れたものの、中学校・高等学校と、いずれも同じ学校へ通学し、お互い気も合ったのか、以来お付き合いは続いているところだ。

F君の家は純農家で、家の前の広い庭で農作業をしており、邪魔にならない程度に私も手伝わせてもらった。
帰りにはよく野菜をいただいたものだ。

菟田野町には、水の守り神を祀る宇田水分神社があり、社殿は国宝にも選ばれていた。
神社の秋祭りは大変にぎやかで、先箱・毛槍・花笠といった江戸時代の大名行列の形式をとった神輿の前を六基もの太鼓台が先導するという、県でも指折りの勇壮な祭だった。

祭への参加者は年1回のハッピ姿を記念に残そうと、次から次へと写真撮影に来店した。
写真館が忙しかったため、私は両親となかなか祭見物に行けなかった。
祭が終わる頃にやっと叔父に連れて行ってもらい、夜店を見て回ったことを憶えている。

そんな立派な祭事も、現在は町に残る若者が少なく、実施には苦労しているようだ。
私自身も、故郷から離れて生活しているため、大きなことは言える立場ではない。

しかし、祭りの時期になると、心の奥に祭り囃子が響き渡る。
この祭りが絶えることのないよう祈るばかりだ。

私の家のすぐ近くには奈良交通のバス停があった。
そのバス停にはお地蔵さんがまつられていたため、バス停は「古市場 地蔵の辻」と名付けられていた。

このあたりは宇陀から吉野を経て伊勢方面へ通じる旧伊勢街道で市場があったらしい。
その往来客を相手にしてなのか、その昔、私の家は「げた半」(げた屋の半治郎のこと)と呼ばれ下駄屋をやっていたり、旅館もやっていたことがあると聞いた。

■小学4~5年

私が小学4、5年生だった頃、町内にパチンコ屋ができた。

これまで遊び場のない田舎町だったので、大人たちは興味本位でよく行くようになり、その中に父もいた。

父はパチンコでは負けることが多かったようだが、次第に通う回数が増え、母を誘って夫婦で通うことがしばしばとなった。
閉店となる夜10時まで遊び、残り玉をグリコのビスケットに替え、土産にとよく持って帰ってきてくれたのを憶えている。

パチンコ屋に通う父母を見て、世間が笑っていたと噂に聞いたが、私にはどうしようもできなかった。

これが真面目一本だった父が遊びを覚えることとなった原因でもあり、私の人生に大きな変化をもたらすこととなった。

■小学5~6年

母は父の教えのもと、写真の技術を次第に覚えていった。
客あしらいも上手なことから、父は母に仕事を任せることが多くなったが、それがきっかけで、ふたりの性格面での溝が深まっていった。

そんな中、離婚話がもちあがった。

あまり詳しいことは書けないが、母は近所でも評判の美人であったことも離婚の原因のひとつである。
ある日、調停委員をしているという親戚の人が来宅し、家族全員を巻き込んだ協議離婚へと話は進んだ。

話し合いの末、両親は離婚することとなった。
親戚の人が私たち兄弟に「あんたらはどうするんや?」と聞いてきた。

幼心に両親それぞれに原因があることはわかっていた。
しかし、母は父より十歳若く、三十半ばで再婚するのにも子連れでは困るだろうし、父も子どもまでいなくなっては自暴自棄にもなりかねないので、私は「父と暮らす」と答えた。
弟は黙って私について来た。

その日から、私の仕事は、炊事・洗濯・清掃となった。
不慣れな仕事をこなす中、母のありがたみを知った。

父も家事を手伝ってくれたが、私も代わりに父の仕事を手伝うようになった。
町の会合に出たり、店の客の相手もしたりした。

おかげで、たくさんの人と顔見知りとなったが、会う人会う人から「これが両親が離婚した家の子どもか」と目を向けられていることを感じ取り、寂しかった。

子どもにとって、親の離婚とは大変大きな出来事だ。

日常生活で困ったのは、三度の食事の準備であった。
近所のおばさんから炊飯器の炊き方を教わったが、おかずは上手くつくれず、もっぱら漬物が多かった。
この頃、私の手料理として唯一自慢できたのが、塩・砂糖で味付けした卵焼きであった。

ちょうどその頃、日清のチキンラーメンが発売された。
また、魚肉ソーセージも使い勝手がよいことを知り、これらはよく利用するようになった。

裁縫も頑張った。
衣服のほつれのつくろいは細かくできないので、大きめに縫ったが、前後の毛尻を丸めて止めるのはいつもうまくいかなかった。

小学校6年生の頃、学校行事に、伊勢志摩方面への一泊の修学旅行があった。
しかし私には家事と商売の手伝いがあったため、たとえ一泊でも自分だけ楽をするのは申し訳ないと思い、父に相談することなく、担任教師に欠席を申し出た。

担任教師は、父の幼なじみで僧侶をしている人であった。

私が欠席を申し出たとき、教師はたった一言「ご飯は誰がつくってるんや」と聞いてきた。

小さな声で「僕がつくってます」と答えると、担当教師の目が赤くなり、私のあかぎれの両手をさすってくれたことを憶えている。

ある日、父の代わりに自治会の草刈り奉仕に出た。

私が草刈りをしていると、少し遠くで、知り合いの人たちが世間話をしているのが耳に入った。
耳を傾けると、どうやらその話は、私の父に関する内容だった。

知り合いは「松尾はんは骨がないお人やから、嫁はんが出ていったんや」と言いながら笑っていた。

私は「事情もわからんのにこんちくしょう」と心の中でつぶやきながら、子どもがてらに「今に見てみ、絶対に見返したるからな」と思った。

当時は両親が離婚するという話は珍しく、親のことを馬鹿にされたことに、恥ずかしさと悔しさで一杯だった。

そんな私の様子に気付いたのか、ひとりのおばさんがこちらをチラッと見た。
私は草刈りで気付かないふりをして、作業を黙々と続けた。

やがて、その年も冬がやって来た。

田舎の冬は寒かった。

朝は軒下に太いツララがぶら下がり、バケツの水は厚く固い氷となる。
小学校への通学路も、雪がすぐに凍ってしまうので、慎重に避けて歩かないと滑ってしまう。

冷水を用いて家事をしていたため、霜焼けになることが多かった。
霜焼けは最初のうちは痒いだけだが、次第に赤黒く膨らんでくる。

痒みを通り過ぎたところで、父に見せると、父は私の腫れている小指の根本を糸で縛った。
そして、霜焼けの中心部へマッチで焼いた裁縫針を刺し、中の赤黒い血を出すのだった。
こうすれば、ひどい霜焼けも必ず2、3日で治ってしまう。
これは父なりの民間療法だったのかもしれない。

■小学6年~中学1年

私たち兄弟が大きくなるにつれて、親子三人暮らしはいよいよ不便さを増した。
そこで父は後妻をめとることを周囲から薦められた。

そこで、父が親しい知人に話をもちかけたところ、後妻となる女性、つまり私の新しい母と出会うこととなる。

父は鮎釣りが趣味で、釣り仲間に、校長から町長を務め退職後に町の調停委員をしていたU氏がいた。
そのU氏に相談をもちかけ、さらに祈祷師にも相談したところ、家から西の方向で名前に「光」が付く適任者が現れるとの言葉を得た。
その機会を待っていると、不思議なことに、おりしもU氏の姪(めい)に「光枝」という女性がいることがわかった。
そうして、縁談の話はとんとん拍子に進んでいった。

縁談がまとまる前、私たち兄弟は、U氏と父、そして将来の母と大阪で一度会食をした。
そのとき、将来の母は、痩せ細った父と私たち兄弟を見て、「これは私がなんとかしなくては」と思ったらしい。

やがて、父と新しい母は結婚し、私は、ふたりが伊勢への新婚旅行から帰宅するのを楽しみにしていた。

ただ、私はひとつ悩んでいたことがあった。
それは、新しい母をどう呼べばよいかということだった。

遅かれ早かれ、将来的に「母」と呼ぶこととなるのなら早く呼んだほうがよいと考え、両親が帰宅した翌朝一番に、新しい母に「お母ちゃん」と呼びかけた。

新しい母はうれしそうに微笑んでくれた。

新しい母は元神戸市内の病院で看護婦長をしていた人だった。
キレイ好きな人だったため、瞬く間に家の中は整理整頓され、見違えるようになった。
また、父の商売も積極的に手伝おうと頑張っていた。

授業参観にも積極的に参加し、毎回着物姿で着飾ってきてくれる。
その姿を見た同級生たちから「あれはどこの人なんや」と声を聞くこともしばしばであったため、私は鼻が高かった。

しばらくして母は、私たち兄弟を強く育てようとの思いからか、「自分のことは自分でやるように」と言うようになった。
母が来たことで、私たち兄弟の家事は楽にならなかった。
洗濯や掃除など、自分に関わることは引き続きすべて自分でしなければならなかった。
これで家事から逃れられると思っていた私の願いは虚しく消えた。

母が私たちの元へ来てくれたことはありがたかったが、母の私たちに対する当たりはどんどんキツくなっていった。

そんなある日、母が一泊二日で実家へ帰省することとなった。
田舎には「やぶ入り(嫁が年一回お盆頃に実家へ帰ること)」という風習があり、それにのって母は帰省したのだ。

母が帰省した晩、私たち兄弟は久しぶりに父を真ん中にして寝ていた。
すると、夜中に人の気配を感じたので目を覚ました。

人の気配の正体は父だった。
父は私の顔をのぞき込み、「母はおまえたちにキツく当たりすぎるので、おまえたちの首を絞めて殺し、私も死のうかと思った」と言ってきた。
私は「これまで世間の笑いものにされ、その上、そんなことをしたらさらに笑いものになる。僕らも頑張るから、お父さんも頑張ってや」と言うと父は我に返り、何事も無かったかのように朝を迎えた。

そのとき私は、普段は何も言わない父が、実は心の中では、新しい母が私たちにキツく当たることを申し訳なく思っていたことを知った。


■中学2年

私たちの時代の人間は、皆必死で生きていた。
母はキツい人であったが、後妻として母として強くあろうとしていたのかもしれない。

母は私たち兄弟の食事には気を遣ってくれた。
痩せ細っていた私たちを見て、これまでの質素な食生活から、ハンバーグや八宝菜といった栄養を重視した食生活に切り替えようと、料理を工夫してくれた。

キツい母でも、私たち兄弟のことを考えてくれている。
そんな母の気持ちを察した私は、以後、父よりもまず母に声かけをおこない、母の意志に沿えるように行動することにした。

やがて、私の家には母の姉妹(母は9人姉弟の4番目)らも訪ねてくるようになった。
姉妹らは明るく、姉弟のいなかった父も、義理の姉弟が増えたことをうれしく思っているようであった。

母は商売経験がなかったが、客あしらいが上手く、話し上手でもあった。
客との会話が盛り上がることで、家の中は見違えるほど明るくなった。
ただ、父が客と話している途中に割って入ることも多く、父との客の会話が、やがて客と母との会話となり、父は黙ってその場から去ってしまうことも多かった。

たくましい母の存在によって、松尾の家は、何事にも母を中心に回るようになっていった。
そんな母でも誰かに相談したいことは多かったようで、母はもっぱら10歳以上の長姉によく電話で相談していた。


■高校3年

私は町内の中学校を卒業後、隣町の大宇陀高校へ進学した。
高校ではバス通学のほか、遠方からの生徒のためバイク通学も許しており、私は一年の二学期からバイク通学を始めた。

このバイクを利用して、家業の請求書配りや集金もしたが、顧客は相手が子どもと見ると、うまく理由をつけて断ることが多く、集金には苦労をした。

やがて高校の卒業が近くなり、いよいよ進むべき進路を考えるときになった。

同級生は大学に進学する者も多かったが、私は入学金や学費がかさむことが気になり、大学に進学したいとは言い出せなかった。

家計に負担をかけず就職できる先はないかといろいろと悩んでいると、折りしも国家公務員の募集広告が目に入った。
さらに職種別に詳しく見てゆくと、中でも「税務職」という職種の難度が高いとのこと。
私は幼い頃から抱いていた「世間を見返してやろう」という思いがよみがえってきた。

大宇陀高校では、これまでその試験をパスした者は数えられるほどとのことで、私は何としてもその試験に合格したいと思った。
そして試験を受け、無事に税務職に合格した。

私は両親に、自分が税務職の試験を受けたことを伝えず、合格後に伝えた。

両親は私の合格を喜んでくれたが、私が試験に合格したことで、心の中では写真屋を継ぐ者がいなくなることでの一抹の淋しさもあったようだ。


■税務大学校生活

税務職に合格し、税務大学校に入ることとなった。
ここから私の人生が始まった。

税務大学校に進学する時点で私は国家公務員なので、毎月俸給をもらうこととなり、勉強させてもらったうえ、給料ももらえるため、ありがたかった。

夏には夏休みがあった。
帰省するとき、母が外出時によく着物を着ていたことを思い出し、少し上等な和装草履を購入しプレゼントすることにした。
しかし、母はその草履を着用することなく、タンスの奥に仕舞い込んでいるようであった。

税務大学校は普通科と本科があり、国家公務員「税務職」で採用された者は、一年間の普通科研修に入ることとなる。
近畿では大阪府枚方市にあり、私はそこで全寮制の研修生活を送った。

私は普通科第二十六期生であり、同期には税務職で近畿地区で採用された者のほか、四国、中国、九州地区での採用者もおり、総勢約二百二十名程度であったと記憶している。

入校者はほとんどが大学進学希望者で、大学の試験に合格すればそのまま大学進学へ向かうのだが、もし合格できなければ家庭の事情で浪人はできないという者が多く、名門高校出身者が多かった。

講師陣は、国税局や税務署勤務経験者が主であるが、外部講師は国立大学(大阪大学など)の教師陣が名を連ねており、そうそうたる面々であった。

寮生活は二人一部屋から、四人一部屋まであり、連帯感をもたせるのが目的のようであった。
いわゆる同じ釜の飯を食べた仲間同士の精神を育もうとしていたのだろう。

私の入校当時は全員男性ばかりであったが、最近は他の職場と同様に、女性が徐々に増えている。

寮には高校卒業後に入校した者や、大学浪人からの者も入校しており、未成年のため酒・タバコは厳禁ではあるが、土曜の午後や日曜の休日には「羽目を外す」者もいた。

この普通科卒業時の成績が新規配属に大きく影響することとなるが、成績が優秀だからといって将来出世するとは限らない。
今後どれだけ組織に貢献できるかが重要であった。

■いよいよ職場へ

税務大学校を卒業すると、自宅通勤可能な桜井税務署へ配属された。

新規配属は三名で、私は間税課に配属され、他の二名は所得税課、徴収課に配属された。
桜井税務署は職員数約50名の小規模署であり、一期上の先輩は三名と、若い職員が少しずつ増えてきている時期であったため、大切にされた。
ただ、女子職員が少ないことから、配属当初の一年間は朝のお茶出しから始まった。

年配の職員の中には、勤務がマンネリ化しているのか、朝夕の挨拶すらしない人もおり、悪いパターンの公務員が一部見受けられた。

新規配属の我々三名は署長から「現場に若さを吹き込んでください」とも伝えられていたので、新人で仕事ができない分、朝夕等の挨拶は積極的におこなうようにした。

また、税務大学校では自分の目標となる立派な先輩職員を見つけ、目標にして努めるようにとの指導を受けたため、目標となる人を見つけようとした。

配属後の一年はあっという間に過ぎ、配属二年目に、上司のY係長が転勤してきた。

Y係長は見るからに無愛想で、強面かつ押しの強そうな人物だった。
ただ、同僚間からの人気はすこぶる良く、人付き合いもスマートで、いわゆる親分肌であった。

そして、この人との出会いが、私の人生を決めたものと言っても過言ではない。

Y係長の口癖は「仕事するときはやれ、遊ぶときは遊ばせたる」というもので、仕事が五時に終わると決まって「さあ行こか!」と私たちに声をかけ、どこへ行くのかと思いきや、いつも同じ焼肉屋でお酒や焼肉をご馳走してくれた。
しかも勘定はいつもY係長のおごりだった。
Y係長の奥さまは教師で、いわゆる二馬力の家庭であったため、私たちにおごってくれる余裕があったのだろう。

Y係長の良いところは、酒が入っても、仕事の話は一切しないところであった。
以後、私もY係長を見習い、酒席では仕事の話はしないように心がけた。


■人生レースのハンディキャップ

私は37歳のときに大腸腫瘍の切除入院をはじめとして、5、6年に一度の割合で入退院を繰り返した。
大きな原因は酒だと思われる。

私は仕事が夜11時に終わっても、ストレスの解消と考え、ほんの10分でも飲酒して帰宅することが日課であった。
妻が待っているのに申し訳なかったが、自宅で夕食をとることはほとんどなかった。

最終電車で帰宅する私を、いつも妻は黙って迎え入れてくれた。
妻の父もサラリーマンで「最終電車での帰宅には慣れている」とは言っていたが、ありがたかった。

赤提灯(あかちょうちん)での一人酒もよく通った。
仕事終わりの一人酒は、サラリーマンの特権みたいで乙なものだった。

ただ、同期がそれぞれ順調に栄進していく中で、私ひとり取り残されたのは大変悔しかった。
入退院のたびに必ず復活してやるとの気持ちだけは強くもち、療養生活を送っていた。
療養生活ではストレスを溜めないよう、仕事のことは忘れ、ひたすらのんびりとした時間を過ごすことに努めていた。

入院期間が長くなるにしたがい、次第に他の患者とも親しくなった。
いろいろな話をしてゆくと、意外に入院回数の多い人がいることがわかり、私だけでないということを知った。
病気の程度に関わらず、皆、病室で明るく振る舞っているのを見て、気持ちの持ち方が大事だと認識し直したものである。

私は入退院を繰り返したが、60歳の定年まで勤められた。
定年まで勤められたのは、何よりも組織のおかげだと感謝している。


■仕事で大切にしてきたこと

仕事をしていると、上司から「いつでもいいから、これやっといて」と言われることが多かった。
本当にいつでもいいのか?と手を付けずに放っておくと、決まって数日後には「あれ出来たかな?」と聞かれる。
私はいつでもいいと言われた仕事を、最優先にこなすようにしていた。

上司は暇そうな人に頼んでいるわけではない。
この人なら忙しい中でも上手くやってくれるだろうと見越して頼んでくるわけである。
忙しい人ほど、仕事を効率良く順序立てて処理する能力をもっている。

本当に忙しいときは仕事を断ることも必要だが、声をかけられるうちが華と思いながら、仕事と向き合うことも大切である。
仕事こそが自分を成長させてくれる。

また、私は「割れ窓理論」と出会ってから、より一層仕事を丁寧に進めるようになった。
「割れ窓理論」とは、ちょっとした綻びが、あっという間に大きな乱れにつながるというものである。

社会人は相手からの信頼を得ることが大切である。
少しの服装の乱れや心の乱れがもとで、相手からの信頼をなくすことは多くある。
自分の変化は自分では気付きにくいが、他人からはよく見える。
これは上司という立場の人間も、部下という立場の人間も同じだ。

「足元を見られる」という言葉がある。
靴が汚れているだけで、万事に気が回らなく、注意散漫な性格だと見られるという言葉だ。

自分の評価を落とさないためにも、相手から信頼してもらうためにも、物事の細部には気を配るようにしよう。


■家族

私は二男一女をさずかった。
すべての子の名は、私が名付けた。

二人の男の子には、私の名前の一文字である「起」を付けた。
姓名判断から良い格数を選び名付けたもので、一人の女の子には「起」を付けなかったが、画数と呼び名の歯切れの良さから名前を付けた。

三人とも、どのように成人してゆくのか、希望と不安はあったが、それぞれ個性はあるものの、良い子に育ったと思っている。
妻の育て方が良かったのであろう。

進学まわりも妻に任せていた。
各自とも適切な進学をし、良い友人とも恵まれていることが何よりもうれしい。

サラリーマン生活の中にもかかわらず、三人とも私立の高校や大学へと進学できたことは、妻の生活力の賜である。

妻は子どもたちとの日常会話の中で、友人関係や仕事関係についてさりげなく触れ、子どもがどのような人付き合いをしているか、また悩み事はないかなどの把握をしてくれている。

私は、三人の子どもが自分が選んだ道を頑張っていることが、何よりも誇らしい。


■孫

世間では孫は「目に入れても痛くない」と言われているが、孫のいる幸せ、むしろうれしさを実感している。
孫は次男の子どもで、男子二人である。
成長するにつれ、だんだんと個性も出てきており、顔写真に見入っては私に似たところはないかを探すのが楽しみである。

二人の孫ともに、私の名前の一文字である「起」を付けているところが、なんとも愛おしい。

69歳での入院治療期間中に、次男の嫁が孫の写真を病室内に立ててくれた。
時々その写真を見ると、心も安らぎ、落ち込んだ気持ちにやる気を起こさせてくれる。

次男宅へ電話をすると、嫁が気を利かせて二人の孫を交互に電話口に出し「ジイジまた遊びに行くよ」と言わせる。
大きくなるにつれて、その声はしっかりしてきており、可愛さも増してくる。
遊びに来ると最初の2、3時間は可愛さばかりで、抱いたり話しかけたりするのだが、なにせ年齢は正直なもので少しすると疲れてくる。
ずっと抱きしめたいものなのに!
「来てうれしい、帰ってうれしいのが孫」とはよく言ったものだ。

子どもは小さいなりに親の行動をよく見ている。
私たちジイジとバアバはかわいがり一辺倒だが、子をもつ親には、良い子に育ててほしいと願うばかりだ。


■うれしかった思い出

小学校低学年時の運動会の思い出を語ろう。

当時の運動会のメインはリレーであり、紅白対抗、学年対抗、組対抗、地域対抗などと熱のこもったリレーで盛り上がった。
運動会でとりわけうれしかったのはお昼のお弁当だ。

お重を利用した海苔巻きやおにぎり、おかずは卵焼きとソーセージ、フルーツは季節柄、梨や柿、飲み物はジュースやサイダー。
早朝から各家族がムシロやゴザで応援席に場所取りをして、どこの家も一家総出の応援であった。

幼い頃の私は足が速かったため、走る競技は大体一着であった。
一着になると賞品がもらえ、賞品は鉛筆やノートが多く、その後の学習に役立った。

今でも思い出すのは、父兄参観の地区別対抗リレーだ。
普段は運動不足の父兄が走るので、腹が出て前が見えない人や、足がもつれて転ぶ人が続出し、観客の笑いを誘っていた。

今の時代は、競争心をあおるのはダメという風潮で、学校でのリレー競技が少なくなってきたと聞く。
悲しい限りだ。

桜井税務署へ新規配属されたとき、背広と革靴に身をかため、カバンを携え、バスと電車を定期乗車券で乗り継ぎ勤務し始めたのがうれしかった。
毎朝七時過ぎのバスに乗る毎日だったが、田舎から都会へ勤めるサラリーマンの一員になったのが何ともよい心もちであった。

また、そんな早朝にもかかわらず、私がバスに乗り込むまで両親が玄関のガラス戸越しにじっと目を凝らしていたのをいまだに憶えている。

子ども三人のうち、一人ぐらいは私の後継者として税務の仕事を選んでほしい気持ちもあったが、三人ともそれぞれが自分の進む道を自分で選び頑張っていることが何よりもうれしい。

三人とも真面目で責任感があり行動的なので、職場では可愛がられるだろうが、健康には十分注意してほしいと願うばかりだ。

私から三人に願うことは、日の当たる場所で大輪を咲かせている花よりも、日陰でも精一杯咲いている花に目を向けてほしいことである。

これまでに私の人生の中で最もうれしかったことは、妻と巡り合ったことである。
妻は、私にキツかった母がいるにもかかわらず、結婚してくれた。

昔の縁談というのは難しいもので、恋愛結婚を除いて、女性側からすると、長男はダメ、親の同居はダメ、母親のキツいのはダメ、そしてサラリーマンでなければならない、という条件が相場だったが、私には断られる要因がいくつもあったのにもかかわらず、結婚してくれた。

妻に感謝状を送りたい。
心からありがとう。




父はこれ以上の言葉を綴っていない。
父のノートの半分は白紙のままだ。

父は入院した年の暮れにこの世を去った。

確定申告の季節になると、僕は父を思い出す。
苦労人だった父、そんな父と一緒に帳簿を眺めながら申告書に記入した思い出。

申告書に記入しているとき、父はどこかうれしそうにしていた。
自分の息子が、自分の仕事で税金を納めるようになったのだな、という喜びだったのかもしれない。

僕の父の名は「安起(やすおき)」という。
そして、父の告別式の翌日は「大安」だった。

安という漢字がとてもよく似合う「自分に厳しく、他人に優しく」を地で行く人だった。



入院中の父とのLINE。

「僕が取材された記事を読みたい」と言った父に送ったLINE。

このLINEの返信が、父からの最後の言葉となった。


父が亡くなったあと、父にお世話になった人たちが、父のために勲章授与の申請をしてくれた。
この立派な勲章を、苦労人だった父に手渡したかった。


最後に、この記事を書くきっかけとなった、アドビさんの「僕と私の確定申告」企画に感謝したい。

今回の機会がなければ、この記事を書くことはなかっただろう。


Acrobatを使って作った父の自伝。

仕事で悩んだとき、これからも父の言葉に会いに行こう。
父のような優しくて強い人になりたい、あらためてそう思った。


「僕と私の確定申告」特設ページ
https://www.adobe.com/jp/acrobat/information/tax-return.html

Acrobat Acrobat オンラインツール
https://www.adobe.com/jp/acrobat/online.html

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