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neutral001 二刀流

 今回から新しいシリーズなので、ほぼ初めましてダモンと申します。これから書き綴って行くコンテンツは「ニュートラル」を中心にして回って行くユニークな思考というものになるでしょう。ポストモダンと共に過ぎ去って行った哲学に対する熱気を別の観点からわたくしの独自の思索・熱量で新たに盛り上げられたらと思っております。主に日本人とは、その核心とは、「ニュートラル」とは日本人にとってどういう意味を担っているのか、について書き連ねて行く予定です。
 KYという言葉が一時期流行りました。空気読めない、主に空気読まずに意見を通そうとする帰国子女を揶揄したものでしたが、KYということができる帰国子女への羨望も入っていました。日本の思想界では山本七平から始まった『「空気」の研究』。論争の殆どが空気を読むなっていう結論ありきを持っての参入であった。書籍で検索しても明らかだろう。最近の『 勉強の哲学  来るべきバカのために』(千葉雅也)もその流れで場の空気を支配している言語の一元化から一歩踏み出して自分の言葉を構築し同時に空気からも離れることを目指した著作と言える。
「場」の空気を読んで自分をその「場」に合わせる、瞬時に抵抗もなく滑らかに(ヌルヌルと)。(コケ威しの逆張りにも思える物言いであろうが)そこにこそ日本人の真骨頂があろうと私は思っている。
 知識人らしさという場の空気を読んで、揃ってKYを推奨することこそが皮肉にも場の空気に添って従ってしまう悪しき日本人に見えてしまうのだがどうだろう……(実は意味が違うのだが)。
 議論、ディベート、会議にまで場の空気に従えとは勿論言わない、そこは謂わば違い法権の「ニュートラル」(公平性)を土台・「場」に自由な言説でなされるべきなのだろうから。ここまで言わねばならぬのは言論界全体が偏向してしまっているからだ。全体が偏向していると当たり前となり偏見自体は見えなくなるし読者の疑問にも登ってこない。私が乗り込んで是正するのだというつもりも、偏向を一々指摘する議論を重ねる意欲もない。時々はかち合うので彼らのやり方、思考のパターン、未だ村の中で思考しているのかと、横目で眺めるのみというスタンスでいるのだが、、余談が過ぎた。
 平野啓一郎はぶんじん「分人」(『私とは何か   「個人」から「分人」へ』)という新しい概念で場(相手)によって変わる日本人を上手く考察し表現している。私との違いはマニュアル車のギアチェンジにおける「ニュートラル」というクッション、中立を置いていないところだろう。
 この「ニュートラル」の必要性(日本人にとっての必然性)はメジャー・リーグ・ベースボールを100年ぶりに賑わせ、野球を世界中にアピールしている大谷翔平に絡めて論じられるべきなのだ。二刀流は日本人だからこそ可能であった。バッター・ボックスという「場」に立ち、場に従って打つ。マウンドに立てば投げる、塁に出れば走る、という日本人の特性が大谷翔平に存分に見事に発揮され活かされている(ベーブルースは孤児院育ちということが肝腎なのだが彼については後日にしよう)。この余りにも違い過ぎる立場(投げて抑え打たせない、と投げられたボールを自由自在に打ち返す)はスタンスというものが離れ過ぎ、「ニュートラル」という距離を瞬時に埋める媒体を想定しないと上手く繋がらない危険極まりのない遥かな隔たりを持つ無限に遠い横断なのだ。まともな精神であれば引き千切られるほどの。栗山英樹(WBCの監督だった)の表現「野球小僧」が大谷翔平の「二ュートラル」での主な在り方であろう。投手でも打者でもないただ野球が大好きな野球小僧。少年は野球を称賛するだけの「誰でもない自分」を体験しているはずだ。純粋に野球が好きなやや生意気の匿名の少年。バッター大谷翔平、ピッチャー大谷翔平を匿名の少年が繋いでいるのである。滑らかに。自我がない故に可能なのである。日本人にとっての「ニュートラル」、それは「誰でもない自分」、そしてそれに成る事が出来る経験でもあるのだ。
 昨今の観光立国日本の、外国人旅行者に対する親切な行動が自然に取れるのも「ニュートラル」「誰でもない自分」で歩いて居られる、又はその場でそう成ることが出来る日本人の特性から来ているのだと私は思っている。それは二刀流と地続きの行為・原理であり、二刀流は大方の日本人を象徴しているのだ。
(続く)
 2024/03/12

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