見出し画像

neutral007 何処にでもいる誰か



「誰でもない自分」とは本当のところ「誰」なのでしょうか?
 同じように「何処でもない場所」ならば「何処にでもある場所」で正解(正解の一つに過ぎないが)で明確なところがある。
「誰でもない自分」において本当の素顔が現れ、反って自分らしい自分が見つけられるんじゃあないか。確かに利他行に徹している自分は純粋の中にいる。純真そのものの自分であるのだろう。
 また「誰でもない自分」とは「匿名」ということでもあろう。文学でその匿名を追求していた作家は星新一だった。例の度々登場する「N氏」である。n は多様体を表す記号でもある。n−1 は多様体の一要素の現れを表示する。n–1 は辞書から一単語を引いて書く作業も表している。辞書は膨大な要素を含む「多様体」なのだ。「N氏」はどんな人にも成れるという意味で「多様体」だろう。しかし具体的に個性を持った個人になってしまったら、固定してしまったら匿名と言えるのだろうか。「多様体」は曖昧とは違って要素の集合であるから、一要素が働いている時には個性的であっても一向に構わない。
 星新一のN氏はむしろ名付けの放棄、名前を付けることが面倒になったからという理由で作られた架空の人物だったのかも知れない。記憶の底に残っているN氏はしかし匿名の無個性の一人物だったように記憶している。空気を読むという場合の空気そのものが匿名の秀美だろう。無我どころか「無存在」になってしまうのだ。「透明人間」は乃木坂46の初期の代表的な楽曲のフレーズとして著名だ。「君の名は希望」(2013年3月)秋元康作詞なのだが、彼は後にAKB48に2018年11月「NO WAY MAN」(まさか、そんなことないよ、嘘だろ、きみ)という歌詞を提供していた。ビートルズの「Nowhere man」からの本歌取りなのだろうが、内容はありきたりな応援歌に過ぎなかった。ビートルズの方は名曲と言って良い詞の出来栄え。行き場のない男に同情し見下さない代わりに自分にちょっと似ていると言ったり、相手を尊重しているところがいい。この曲を人気絶頂の時期に出せる反骨心はビートルズがロックである証だったとも言える。ビートルズは初期見た目がいい、可愛いだけの人気のアイドルとも言われていた。この曲の歌詞ははみ出している人間への共鳴でありロックの精神(反抗心)も読み取れるのだ。この男こそ「誰でもない自分」と言えないだろうか。隙のない王道からはみ出してしまった、モラトリアムやニュートラルに行く、あるいはそこに行く道を見出すしかない。そのニュートラルは一般道を行く一般人には見えない場所だが、はみ出してしまった人間には最終の一歩手前の場所として見えている筈だ。「何処でもない場所」とはそういうところではないか。そこは見た目「何処にでもある場所」(部屋か、公共の風景か)と重なっているのだろうが……。
 「誰でもない自分」はまた「何処にでもある場所」の路上で繰り広げられている迷子に寄り添う救世主ともシンクロしていて不思議ではない。


 画像は今年2024年のわたせせいぞう氏のカレンダーである。「ハートカクテル」(1983−89まで連載。『モーニング』隔週誌が1986から週刊誌)が代表的な作品の漫画家兼イラストレーターで、私が無人島へ行く時には必ず持ってゆくだろう本の今のところの第一番目の候補である。星新一のようなショート・ショート(1話あたり4ページ)で、隔週誌・週刊誌の連載だったので、それぞれがとても短いストーリーである。ほとんどが男女の別れ話。1970−1980年代。ぼくにとっては先行する世代を見上げている感じで味わったもので、音楽にはズレもあったが鮮やかな色彩で描かれた自動車はとても懐かしく感じられた。リアルタイムで読んだわけではなく、2018年9月頃、およそ6年ほど前だった。大抵のシーン、女性は未来に向かって力強く歩き出そうとし、男は未練を抱きつつ脱力感で潰れそうなところを何とか耐えているような姿勢を見せる。辛いけれどもそういう経験のない男はごく稀れであろう。
 彼の描く登場人物には個性がないところに注目して欲しい。「誰でもない自分」=「何処にでもいる誰か」という意図であのような主人公の姿、特に顔になったのであろうと思われる。
 多くの読者に感情移入してもらいたいから、という狙いをさり気なく凌ぐような没個性なのである。他の作品でも主人公はほぼ同様な風貌(個性的な姿が主人公の作品も例外的はある「北のライオン」2009−2013)。
 漫画だから当然実物よりも小さい。その辺も計算に入れ、手に取れる主人公に仕立て、過去という時間設定からも愛おしく思われる主人公と云える。
「誰にでも当て嵌まる人間」とは「誰でもない人間」。つまり「誰でもない自分」ということなのか。「多様体」の一要素「ニュートラル」の自分であり続けるとはそういうことなのだろうか。放心状態の男が唯一耐え忍ぶことが可能な姿。ニュートラルは失恋を支える唯一無二の場所を提供する。
 仏道と違い「多様体」あるいは「ニュートラル」における「無我」(利他行や放心状態)とは有限の一要素に過ぎないことになる。自分とは「多様体」の全ての要素の現れの集合体。自己同一性とは違い一個に収束することは出来ない。決定しなくとも良い、少なくとも日本人とはそういうものだろう。
 「引き篭り」は n–1 の 1 を固定させ肥大させる要因を担っており、千葉雅也が纏めた21世紀の現代哲学(「現代思想入門」講談社現代新書)のテーマとなっているのだ(自然や他者との関わりの否定。プログラミングにおけるオブジェクト指向=自己責任のような)。尤も近代の哲学者たちだって概ね引き篭りの自省・反省によって一要素を肥大させ、増幅させた内省をノートに書き綴って成り立ってきたアイデンティティに過ぎないとも云える。近代哲学も現代哲学も n–1の1の増幅によって成り立ってきたのだ。自ら来し方をより暗く照らす闇の近くを辛うじて照らす光によって……。(続く)
 2024/03/27

#neutral
#ニュートラル
#モラトリアム
#自己同一性
#アイデンティティ
#誰でもない自分
#何処でもない場所
#何処にでもある場所
#nowhere man
#ハートカクテル
#日本人
#利他行
#わたせせいぞう
#無我
#多様体
#近代哲学
#星新一
#透明人間
#何処にでもいる誰か
#現代哲学
#哲学
#日本
#個人主義

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?