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明日から使える脱構築〜『現代思想入門』より〜

みなさま、鹿人(仮)です。

 「脱構築」はご存知でしょうか?哲学を勉強されている方なら、たいていご存知かと思いますが、デリダのあの「脱構築 déconstruction」です。学生時代、解説をあたってみても、「なるほどよくわからん」となることが多かったです笑。

 さて今回は、この「脱構築」について記事を書いていこうと思います。参考にする本は千葉雅也先生著の『現代思想入門』です。本屋さんでも、結構見かけると思います。

「流石」と言うのは少し失礼かとは思うのですが、それほどに抜群の読みやすさとわかりやすさがあって脱帽してしまいます。

 この本では、まず「現代思想≒ポストモダン」とした上で、その代表者であるデリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人の思想を解説していきます。そして、デリダの脱構築をベースに、この三人の思想が読み砕かれていきます。私はこの脱構築の解説が、まさに「明日から使える」と言えるほどわかりやすく、マニュアルのようになっている、と思いました。本記事は、この解説をまとめることで、私自身とこれを読んでくださる皆様が、脱構築を応用できるようになることを目的としています。

 それでは、始めていきましょう!


脱構築とはどんなものなのか

 まず、脱構築とはどんなものなのか?これ自体、簡単に言うことは難しいと思います。たいてい、こういった概念は様々な議論を経て変遷したりして、どんどん複雑なものになったり、そのつど問い直されたりするものです。

しかし、「流石の」千葉先生、ずばりとまとめてくださっています。(もちろん、これが唯一正しい解釈というわけではなく、識者の方々の理解で、大体こんなものだろう、と言われるようなことをまとめてくださっているようです。)

物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保する p.25

二項対立とは、たとえば、内側と外側、男と女、主観と客観、西洋と東洋など、ちょうど反対の関係にある2つの概念のペアのことを言います。本来的にみれば、こういった二項対立のどちらかが良くて、どちらかが悪いということは基本的にはないでしょう。それらは互いに複雑に関わり合いながら存在しているのです。

 さて、脱構築では、こういった二項対立を様々な主張や考えの中から明らかにしていきます。千葉先生の分析の例を見てみましょう。

優柔不断なのはいけない。責任をもって決断しなければいけない。どっちつかずの態度でいると、人に振り回される になる。大人になるというのは、決断の重さを引き受けることだ。

こんなツイートが流れてきたとします。これは人がどうあるべきかを言っているもので、はっきり価値を示している主張です。二項対立を複数使って組み立てられています。 デリダが念頭にあれば、次のように分析できます。

まず、「優柔不断vs.責任ある決断」という対立。優柔不断はマイナス、責任ある決断はプラスです次に、「どっちつかず」は「優柔不断」とイコールで、「人に振り回される」 というのは、そうは書いていませんが、概念的に言えば「受動的になる」ということです ね。「受動的」の対立概念は「能動的」ですから、「優柔不断=受動的vs.責任ある=決動的」となります。 そして最後に「大人」が出てきて、「責任ある決断=能動的=大人」 という等式をつくります。逆に言うと、「優柔不断=受動的=子供」となります。加えて 「決断の重さ」とも言っていますから、決断しないのは「軽い」ということになる。これ がこの文に含まれる二項対立の分析です。p.40

このようにして、よくある主張や考えの中から二項対立を浮かび上がらせます。この例では、「責任ある決断=能動的=大人」vs.「優柔不断=受動的=子供」という対立が浮かび上がり、そしてツイート主が「責任ある決断=能動的=大人」にプラスに、後者をマイナスとする立場を取っている事がわかるでしょう。

 このようにして二項対立を浮かび上がらせた上で「マイナスの側に置かれているものをマイナスと捉えることは本当に絶対だろうか?と疑問を向けることが、脱構築の基本的発想」(p.41)なのです。

 それではもう一度、先に上げた引用を確認してみます。

物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保する p.25

脱構築というものが、どんなものか理解できてきたのではないでしょうか。ざっくりいえば、「あなたの主張はAとBという二項対立を前提していて、AあるいはBのほうがプラスだと言っている」と指摘することから始まる、ということです。このようにして、自分たちがどのような二項対立の前提の下で主張しているか、反省的にとらえることができるのです。

脱構築の手引き

 続いて、脱構築がどのように展開していくか、その手続きを見ていきます。こちらも、見事にまとめられています。

まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるわけではありません。

対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す

そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。p.42


 では実際、この手続きを用いて脱構築を行ってみたいと思います。あまり現代的ではないとおっしゃる方がいるかもしれませんが、こういう主張があったとします。

義父の介護は嫁がするべきだ。

この主張の中には、嫁=女性が、旦那=男性の家に入り家事をする、その延長線上に介護が考えられている、そのように言うことができそうです。その中で「嫁=女性=家事=介護」vs.「旦那=男性=仕事」という二項対立を考えることができるでしょう。この主張にこそ、直接的なプラス/マイナスは見られないように思われますが、「女性=家事=社会的不利」vs.「男性=仕事=社会的優位」の様な二項対立も想定することができると思います。ここにおいて、女性側のマイナス、男性側のプラスという価値観が浮かび上がりました。

 さて、この「嫁=女性=家事=介護=社会的不利」vs.「旦那=男性=仕事=社会的有利」という価値観に、先に引用した手順の①を適用してみます。まず、男性が仕事をし女性が家事をしなければならないという前提を疑います。仕事に出ていくか、家事をするのか、性差によってそれを決定づける必要はどこにもありません。向き不向きは個人によっても違うのです。そのうえでどちらを男性が担うのか、女性が担うのか、というのも個人の事情次第です。そして、仕事と家事を完全に分業するか、その割合をどうするか、といったことも夫婦間での判断にゆだねられるべきです。

次に、「家事=社会的不利」vs.「仕事=社会的優位」という前提も疑うことができるでしょう。仕事は社会的な事、家事は生活の事とまず考えられそうです。ここで、生活と仕事どちらが大事か?と問うことができます。多くの人々は生活あって仕事があり、仕事があるからこそ生活が成り立つと考えるのではないのでしょうか。この二つのことは、互いが片方だけで成り立つような事柄ではありません。こここまでで、上記の手順の②が適用されたと言えるでしょう。

補足的に③も考えてみます。(あっているかどうかは議論が必要だと思いますが。)例えば、LGBTQは男性vs.女性という対立の第三項になると思いますし、仕事でありながら生活の事である家事手伝いのプロフェッショナル、というのも第三項になりそうです。こういった事柄から、最初に例にあげた主張から、男性が仕事をしているから偉い、というような前提が分析され、それがおかしいと思えそうです。(実際、そのように思ってらっしゃる方は多いでしょう。)

まとめ

 ここまで、千葉先生の『現代思想入門』から、「明日から使える脱構築」というトピックで進めてきました。私自身も大雑把ではありますが、脱構築を実践してみましたが、手引きがあることによって、スムーズに「脱構築」的な論を展開することができた(かどうかはまた専門家の先生に判断はゆだねますが…。)と思います。中には、脱構築と知らなかったけれど、普通にこのような考え方を展開されている方もいらっしゃるかもしれませんね。

千葉先生的には、「いつでもこういうツッコミを入れていたら、生活も仕事も成り立たなくなる(笑)」(p.41)とジョークを飛ばしてらっしゃいますが、自分がどんな前提に立っていて、どのように考えがちであるか、そういったことを明らかにできる便利な道具の一つであるな思います。いつでも使えるというわけではないかもしれませんが、他人と語り合う際、そしてそれが理解できないと思う際、相手が主張すること、そしてそれに対して自分が思っていること、それを脱構築的に考えてみるのもいいかもしれません。そのようにして相手の事、自分の事を深く反省してみることで、直情的な軋轢というのは少なくなりそうな気もします。(むしろ逆に主義思想の違いで深い軋轢を生む可能性もありそうですが…。苦笑)

それでは皆様、ここまでご精読いただきありがとうございました!


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