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感覚に集中すると、リラックスしている

人間には二つのモードがあるみたい。考えるスイッチ、感じるスイッチ。

考えないと、感じられる。考えていると、感じられない。

ということは。

感じていれば、考えられない。

だから。

緊張してたり、不安だったり、妄想が止まらない時は、

自分の体の感覚にぜんぶ委ねて100%感じてみると、

圧倒的に静かになって、びっくりする。

感覚に集中していると、勝手にリラックスしてしまう。


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ただ「ぼーっとする」こと

手当で心身を整える自然療法、靈氣では、手を当ててる間は何も考えずにぼーっとするのが最善だと言う。光をイメージしたり、治れ〜と念じたり、治った様子をイメージしたり、高次元のどなたかに依頼するような必要はないと言う。

私はスクールで習う前には(どこで習うともなく)靈氣中に自己流のイメージワークを取り入れていた。それは「自然を思い浮かべる」というもの。それも、結構寄りのカメラワークでミクロに入り込むようなイメージで。波間の泡、木肌からにじむ樹液、風に揺れてささめく竹、等等のビジュアル、あるいはサウンドを脳裏で再生しながら靈氣をしていた。

靈氣の先生にそういったイメージワークの是非を尋ねたところ、「やらなくていいでしょう」とのご返答。「それ、リラックスしようとしてやっているでしょう。リラックスしよう、しなくちゃ、という意識は不要だよ」と。

なるほど...。たしかに私は「リラックスしようリラックスしよう」と強く思っていた気がする。それに、イメージもしなかったら、暇になって、手を当て続けられなくなったらどうしよう?

でも。ここで逃げる訳にはいかない。本当に何も考えず、イメージせず、「ぼーっと」してみせようじゃないか。と、逆に闘争心が湧いたのだった。

いざやってみたら、思っていたよりも自然にできて拍子抜けだった。

雑念は湧いて当然で、湧いたらまたぼーっとすればよいというゆるさはありがたかった。リラックスしなくちゃと思うよりも、とにかく感覚に集中するモードに切りかわるようになった。


考えていると、感じられない

こちらのnoteに、靈氣中は「目の前にいる人を無視しない」と良いと教わったことを「いま・ここに集中する」として書いた。

そういえば、私はそのイメージワークをしている間、手を当てている相手からの感覚を感じることがおそろかになっていた。それは、非常にもったいないことだった。相手から伝わってくる感覚は、手を当て続けるか、場所を変えるかなど、判断するのにとても重要な手がかり。見逃す(感じ逃す)わけにはいかない。


考えなくても、その場にいることはできる

エレベーターに乗っている間、信号待ちの間、お湯が湧くまで。ほんの隙間時間でも、すぐにスマホを開いてしまう。普段は私もそんな感じ。

それでも、靈氣をするようになって「ぼーっとしているだけ」でもいられるようになった。以前は瞑想しようとしても10分、15分で結構辛かったのが、20分、25分自然にできるようになった。

とにかく合掌している手の感覚を感じ続ける、体の感覚を感じ続ける。

思考、雑念に気づいたら、手に意識を戻す。

人間って、考えていなくても、その場にい続けられるんだ。

自分の思考をどうこうこねくりまわさずに感じるままに任せるモードは、私にとってはけっこう新鮮で、おもしろい。



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