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実家の家・相続問題

みかんぐみに在籍していた2005年ごろ、父親が当時住んでいた小倉の小文字に土地を見つけたので新居を建てるから設計をして欲しいと依頼されました。

僕は当初から両親の新築には反対(そんなに前からか)だったのです。でも、まだ存命だった祖母と3人で健やかに暮らせる家をという希望で、妹が戻ってきた時の部屋と、僕が戻ってきた時の部屋もなどと、絶対にありえないプログラムが設定されていたので「いやそれはありえないからやめなさい」と説明して部屋数はミニマムにして、北側の割には日当たりの良い斜面地で、眺めの良い山の中腹の敷地だったので、広く庭をとってゆったりとした少し高床の平屋にしたのでした。




これがなかなかおおらかな素晴らしい家でした。初めて自分1人で設計した実家の小文字の家。

今の社会の意識からするとそれほどではないですが、割と高い断熱性能(みかんぐみは当時からその辺はしっかりしていた)だったので暖かく涼しく快適に老夫婦と祖母が暮らしました。その後2010年に祖母は他界しましたが、ことあるごとに、この家はいいねぇ。とよく褒めてくれました。

それでもやっぱり僕は今の日本の相続の問題とか地方都市の実家問題とか空き家問題とか僕の周辺で起きていることを考えるとこの家はいずれ売却して両親は身軽になって、都心のコンパクトなマンション住まいが絶対に正しいと思っていました。




実家に帰るたびに、この家どうする?と相談していたものでした。

そんな昨年の冬くらい、太宰府に住む高3に進級する姪が、将来の夢を叶えるために東京の大学に進学したいと言い出しました。それを聞いた僕の母がなんと「だったら私が一緒に行ってみてあげなければ」みたいなことを言い出したんですよ。

「いやいやお母さん大学生って大人だから一人で大丈夫だし(笑)」と思いながらも、「いやちょっと待てよ。もしかしたらあの重い実家の地所を処分するのに最適のタイミングかもしれん。」と思ったのです。

あの日本国民1000万人が号泣したリリーフランキーの東京タワーを読んでからというもの、同じ北九州出身で到津とか小倉競馬場とか三萩野とかそういう僕や母の心象風景を描きまくったあの小説のように、いつか老いた母を東京に呼んで迎え入れ仲間たちと一緒にワイワイ楽しく暮らすのがいいよな。というイメージも結構リアルにあったのですよ。(母の面倒は見るけど、父はどこかで好きにやってていいよ。w)




お母さんも東京においでよ。でも家は売ってしまおう。暮らしをコンパクトにしようよ。

そうやって方針が決まればアクションがとてつもなく早いのが我がファミリーでして、両親はとっとと実家の売却を進めました。

当時は親孝行だよなと思って設計料はもらっていないのだけど、この家のローンの残債と固定資産の評価を考えたら、このくらいの金額で売れれば御の字じゃない?という僕の提示した金額を遥かに超えた金額にプライシングして、そして2人は華麗に売り抜けました。

父と母はがいうことには「だってデザインと使ってる素材が全然違うもん、当たり前やん」とのことでした。たしかに17年の時間の手触りによって建物が深みを増すのは、珪藻土も無垢板のフローリングも全て本物の材料だからなんだよな。




僕自身が信じていなかったデザインの価値がきちんとお金の価値として評価された瞬間でした。この大きな差額がデザインの価値なのだなと。やっぱりこの親はただもんじゃないなと思いました。

かくして姪は無事に大学のAO入試に合格し、その間、母のために妻が探してくれた目白の賃貸マンションは無事に僕の名義で契約し、小倉の家財の一部は目白に運び込まれ、70歳になる母の東京暮らしを待つばかりとなっています。

本人はゆる〜く小倉の室町のマンションとの2拠点ライフを楽しむらしい。そのことに僕の娘たちも大喜びしています。




本当に我が両親は最先端行ってると思います。

何にも縛られることなく自由に生きる老夫婦を見ていると、自分たちもやれるよなと思います。人生ってどういう変化をしていくのか本当に読めないし楽しいですね。

さて、リリーフランキーみたいに27年ぶりの母との生活「オカンとボクと、時々、オトン」な東京ライフが始まろうとしていて期待に胸膨らませワクワクしているのですが、一つ気になるのは、オトンが時々じゃなくて、結構登場しそうなんだよな。まあまあオトン。頻繁にオトン。笑

最後、写真におさめ、この家の光と手触りは塩井くんの現代アート作品に焼き付けました。




家は他の人の手に渡るけどおばあちゃんとの思い出は、家族の心の中で生き続けます。

さようなら小文字の家。
たくさんのあたたかい思い出をありがとう。

親孝行をしなければならないですね。笑


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