作文と私と道徳
今は文章を書くことが嫌いではないが、子供の頃はあまり好きではなかった。特に、学校で書くようにと言われた作文を心底面倒に思っていたのが懐かしい。
今も印象に残っているのは「税金について」と「人権について」である。
どちらもコンクールがあったように記憶しているが、結局私の同級生から何らかの賞を獲得した児童や生徒は出たのだろうか。少なくとも自分がもらわなかったことだけが重要で、あとは自分の作文の詳しい内容さえ忘れている。
「税金について」と言われても、まだ義務教育も終えていない年頃で税金について考えることなど「払いたくないなあ」くらいのものだった。親が自動車税についてぶつぶつ文句を言っていることは理解しているが、さほど身近ではない。「偉い人がうまく集めてうまく適当に使ってくれ」以上の感想などないのである。まだ、授業で習ったことをまとめて感想を書くなどといった、単純な感想文の方がマシだったと思う。
それから「人権について」。
これがまた難物だった。
これについては、前年の受賞作文を数作品、教師から配布されて読んだのを覚えている。たまたまかもしれないがすべての作文が体験談に基づいて書かれており、子供心に「終わった、自分には何も書けない」と悲観したものだ。
私の世界は狭く平凡で、人権侵害という大問題が噴出している噴火口など、見渡す限りどこにもないように思われた。
もしかすると、当時の私の周りでも、薄皮をめくればさまざまな問題が渦巻いていたのかもしれない。しかし、少なくとも私に見える形で表出はしておらず、すなわち、言葉は悪いが作文に書けるようなネタが考えつかなかったのだ。
人権が目の前で侵害されなければ、人権について考えた作文を書くこともできない、ということに子供の私は困惑した。
ヒーローは平和な世界には現れないし、罪が犯されなければ断罪はできない。パラドックスのようでそうではない、当然の話である。
今の私だったらこのようなことを作文にそのまま書くかもしれないが、当時の私はもう少しまじめで道徳的だった。だから作文に四苦八苦したのだ。
そもそも私は根っからまじめな人間ではないのだから、まじめな内容を書こうとすること自体が間違っている。
今さらになってそう理解したようにも思う。
ある意味、欠点だらけの自分を認めてやるという道徳的な行為が、文章を書くことへと私を誘導してくれたのだ。道徳だとか倫理だとか人権だとか、抽象的だがやはり捨てたものではないのである。
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