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非人間的な質─『新建築』2018年9月号月評

「月評」は『新建築』の掲載プロジェクト・論文(時には編集のあり方)をさまざまな評者がさまざまな視点から批評する名物企画です.「月評出張版」では,本誌記事をnoteをご覧の皆様にお届けします!
(本記事の写真は特記なき場合は「新建築社写真部」によるものです)



評者:中山英之

駅前広場─ベクトル的空間

巻頭のNEWSの中に熊本駅前広場新デザイン発表の記事を見つけました.
西沢立衛さんによる当初案がなぜ継続的なフェーズを重ねることなく見直しとなってしまったのか.
誌面では詳しい事情にまでは触れていませんが,改めて当初の計画案を見返すと素晴らしく,個人的にはとても残念なニュースでした.

駅前広場にはトラム駅やバス停,タクシー乗り場などさまざまな機能がレイアウトされていますが,当初案の屋根たちはそうした機能をトレースすることなく,足元の出来事とは一見無関係であるかのように虚空を縁取っています.
床には大きなひと連なりのコンクリート面が段差なく広がっていて,トラムのレールが描く曲線は,その場所をたまたま通り抜けた車輪跡が残されただけのようでした.人や乗り物の動きをなぞるように屋根が架けられ,段差や側溝でレーンが強調される従来的な計画では,空間に強いベクトルがあらかじめ表示されていて,行動はそれをなぞるようにあります.

当初案の屋根ラインも,その輪郭をじっくり観察してみれば,人の流れが道路を横切りそうな場所や,乗り物を待つ人びとが停滞しそうな場所などをそれとなく包含するように注意深く引かれていることに気付きます.けれども,結果として現れる空間から決まったベクトルや行動ごと,機能ごとの分割を見出すことはできなくて,ただ人びとや乗り物がそれぞれの間合いでインディペンデンスに行き交う姿だけがそこにあるかのようです.
順調にフェーズが刻まれていたなら,きっと実現されていたであろうそうした風景は,もう見ることはできません.

建築がそこにある事物に与える輪郭について,考えさせられるプロジェクトが散見される9月号にあって,冒頭のニュースをどうしてもアイロニカルに受け止めてしまうのは,まったく私的な感情でしかありませんが,平常時と災害後の人の心理についてなど,このニュースの背後にあるだろう課題が今後誌面で分析的に採り上げられることを期待せずにはいられません.




ベクトル空間と「付かず離れず」の空間

たとえば空き店舗が目立つ商店街の寂しさは,上に書いたような “ベクトル的空間” の最たるものであるアーケードが,それをなぞる人びとの存在を失ってなお空中に矢印を表示し続けることでいっそう強調される.

商店街に漂うそうした二重否定性のようなものに,Mビル(GRASSA)+なか又のプロジェクトは行政と施主,そして建築家が共同体制を採ることで向き合おうとしています.

前橋デザインプロジェクト Mビル(GRASSA)+なか又|
中村竜治建築設計事務所(Mビル) 
長坂常/スキーマ建築計画(なか又)


前橋市の中央通り商店街の一角に新築されたパスタ店「GRASSA」(左)と,和菓子屋「なか又」(右).空洞化が進むまちなかの再生を目指して立ち上げられた「前橋デザインプロジェクト」の一環.煉瓦や緑化といった共通のデザインコードを用いつつ,それぞれ別のオーナーの出資により成立する,別個の計画として設計がなされている.

複数の建築家がひとつの街区を形成するようなプロジェクトは前例がないわけではありませんが,たいていの場合は個性的なアラカルト料理が並立したような風景になるか,あるいは卓越的なデザインコードが敷かれることで調和が図られるかに道が分かれがちですが,ここでは建築家同士が,そうしたケースとはかなり趣の異なるやや謎めいた関係性の見出し方をしています.
それぞれの建物配置をネガに,アーケードの強いベクトルに直行する小径が新たに見出されることがポイントになってはいるのですが,Mビルはそちら側に一切のインタラクションを期待せず,完全に背を向けて建っています.
たとえば折れ戸などの開放的な設えで小径に賑わいが表出する選択を採らなかったのは,この新しい小さな経路に建築があらかじめ色付けをすることが,結局のところ作用としてはアーケードのそれと変わらない “ベクトル空間” の単なる描き足しなってしまうことから,建築家自身の言葉を借りるなら「付かず離れず」の状態を保ちたかったからに違いないでしょう.
この裏を裏としてつくる選択と,「カドの八百屋」的佇まいで建つなか又の構成が醸し出す不可思議な掛け合わせは,人の活動をはやしたてる術ばかりが商空間のあり方ではない,その一例を示しつつあるように感じます.

一方で特にMビルの構造と構成が,それが表現的冗長さに転ぶことを避けようとするがあまり,一般言語の引用の内に引き籠っているように感じられることには,一抹の寂しさを禁じ得ないことは書き加えておかなければならないと思います.また,紹介されている次期工事の構想にも,むしろここで対極に置かれていたはずのモール的な記号性を禁じ得ず,建築構成が本質的に持ち得る言葉による,建築家相互の高次の掛け合いを期待したいなと感じました.とても豊かな意味をはらんだプロジェクトなのだからこそ.




「ベクトル空間」 の対極

日本の経済的切実さが前橋に生み出した小さな隙間の空間に比して,同じ国の経済事情が銀座の中心に生み出すのは,PARKと名付けられていながらその実,深層では経済原理そのものが理解を超えたレベルで表出させた空間です(Ginza Sony Park).

Ginza Sony Park|Ginza Sony Park Project

1966年,芦原義信建築設計研究所によって設計・竣工した「ソニービル」を減築し,テナントやイベントスペースなどが入る空間としてリニューアル.2020年まで運営を行い,2022年に新しい建築が建設される予定.敷地は大勢の人が行き交う数寄屋橋交差点に隣接する.

ものをつくり売っていた企業がその構造に本質的な変化を求められ,製品に触り,体感する場を持つことが大義を得られなくなることが,この立地にあって建築丸ごとその意味を消失させてしまうほどとは.

あるいは予想するに,一方では耐震性の問題が解体を急がせ,もう一方では一時的な建設費高騰をやり過ごすために生まれたモラトリアム(あくまでも想像ですが)を,創造的な読み替えによって生きた時間にしていこうという発想は,前向きに考えるなら似た運命にある潜在的な類例たちを呼び覚ます可能性に満ちたものであるように思います.
何より銀座の中心で建築や境界といった強固な意味性が半ば解体されて宙吊りになった場所に居合わせることは,まさにここまで書いた “ベクトル空間” の対極を行く経験に違いありません.
これは建築誌なのだから,その背景や内実をもっとストレートに語ってもプロジェクトのコマーシャルな意義は少しも損なわれることはないように思います.




真に人間に寄り添うとは

冒頭,駅前広場についての小さなニュースに長く触れたことと,9月号に駅舎のプロジェクトが複数紹介されていることに,深い含意があったわけではありません.

そもそもが速度やダイヤといった非人間的な事物がレイアウトのプライマリーを占める世界である鉄道や電車とその駅に,なぜ偏執的なロマンを見出す人びとの層がこうも分厚く存在するのか.
そのことについては,最後に少しだけ考えてみるべきかもしれません.
つまり鉄道がそれ自体の合理に忠実にある時,あるいは駅前のキャノピーが人びとの行動を平均化したベクトルに無関心に浮かぶ時,私たちは一義的なヒューマニズムを外れているがゆえの自由さのようなものを感じるのはなぜなのでしょうか.

実際9月号で手が止まるのは,駅舎の計画に限らず字義通りの人間味が単に語られ,それが建築エレメントに翻意されたようなものの対極にあるプロジェクトばかり.地産材をあしらったファサードや,全面開口に並べられた大テーブルよりもむしろ,Mビルがあえて路地に背を向け,エレベータを撤去した竪穴から見上げる銀座の空の方に,精神的解放感を見出してしまうのはどうしてなのでしょうか.


石上純也さんのボタニカルガーデンアートビオトープ「水庭」がかつて水田だった場所につくられたことを読むと,その理由がなんとなく分かるような気がします.

ボタニカルガーデンアートビオトープ「水庭」|
石上純也建築設計事務所


豊かな自然に囲まれながらガラス工芸や,陶芸を楽しむことができる滞在型体験施設につくられた庭園.かつて水田として使われていた敷地内に,大きさや形状の異なる合計160個の池がつくられ,それらの間に,318本の木々が隣地の雑木林から1本ずつ種類や形状を調査した上で再配置されてる.

この徹底的に非人間的な庭園を理解しようとすることは,ただ空の移ろいを映すために土地を拓いて水を張り,ただ大地をなでる風のゆらぎを可視化するために稲を等間隔に植えて,収穫そのものが顧みられることのない水田を思い浮かべることに近いように思います.
水田の美しさには,それ自体が美を語るために存在しているわけではないことが含まれていて,それは単純なヒューマニズムを寄せ付けない質のものです.
建築家にとって,真に人間に寄り添うとはそういうことなのかもしれない.万人に理解される話題ではなかったかもしれませんが,そうしたことを強く考えさせられる9月号でした.




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