声をあげられるのは、いつも恵まれた人ではないか①
女性の権利を求めて「フェミニズムの波」を生んだのは、特権階級の白人女性たちである。
日本でセクシュアルハラスメントの問題を訴え、戦った女性たちは、仕事や能力に恵まれた女性であった。
男女雇用機会均等法などの法律を作成したのは、一部の有識ある男性たちであり、世界人権宣言などの人類全体の人権のために行動したのは大統領夫人たち上層部の人々であった。
そして今日、マイノリティの人権を復権する目的ために先導しているマイノリティたちも、資金・地位などに恵まれた人たちが大半を占めている。
18世紀後半のフランス革命以降、人々の権利について考えが加速した。そして、人権を求める動きが急速に広がっていく。20世紀前半は、世界大戦の影響もあり更なる進歩を遂げた。2000年以降は、今まで抑圧を受けていたマイノリティが次々と声をあげて、部落差別解消法や障害者差別解消法の施行、そして来年にはLGBT差別解消法の施行されることが囁かれている。
ただ僕はいつも思う。人権のために声をあげることも、マイノリティたちが声をあげるボトムアップ方式であっても、それらが行えるのはマイノリティの中のマジョリティであり、マイノリティの中の特権階級の人々だということだ。
女性の人権侵害にせよ
被差別部落の人権侵害にせよ
ハンディキャップを抱えた人々にせよ
LGBTの人々にせよ
・・・
高い教養を身につけなければ戦うことや権利を求めることはできない。
どのように戦えばいいのか
どのように連携をとればいいのか
まず何をすればいいのか
いつまでに目的を達成させたいのか etc…
上記の内容は情報や知識などに大きく左右されてしまう。
これらについて考えていくと、“能力がある”者たちばかりが前に出てしまっているように思う。結果として言葉や行動を表に出せない者たちは、“能力のある”者たちの意見で作られた庇護の元での権利を得たことになってしまう。全員の意見をまとめた形では気が遠くなるほどの時間と折衝が必要になる。
だから、特定の人間たちが取りまとめた形での意見が先行するのは致し方ない。しかし、元は被抑圧者たちが抑圧者に奪われたものを取り戻すために戦っているのに、力ある被抑圧者たちだけの意見をまとめて、それがあたかも「総意」としてしまったときに、本当の意味で「権利の復権」として語れるのだろうか。
僕はこんな経験をしたことがある。
大学院時代に、男女雇用機会均等法などの政策を作った方が講演をする場に参加することになった。男女雇用機会均等法など、女性のための法が整備するうえで、男性が中心となっている話を聞いた。それではまずいと思い、女性たちにパブリックコメントを求めたということであった。
「女性のためのものであるはずなのに?」という疑問と同時に
「パブリックコメントができる人たちって言葉にできる人たちだよなー」とふと思った。
最後に、講演会での疑問を共有するコーナーで僕は
「法を作るときに、当事者である人が少なく、パブリックコメントで意見を求めたといっても言葉にできる人たちですよね。この講演会にきている人たちには申し訳ないが、ここに来ることができる時点で力がある立場にあると思います。本当に必要なのは、ここに来ることのできないような、言葉を出すことができない女性たちなのではないでしょうか。」
とドキドキしながら質問したのを覚えている。初めての経験であり、講演者には申し訳なかったが会場中から拍手が起こった。なにに引っ掛かったのかはわからない。その場にいながら手を上げられない人々に共感を得たのだろうか。どちらにせよ、本当に必要な声は、声をあげられない人々の声を法に反映させることであると思った。
何かを求めるときには、先導・扇動させる一部の人間が必要である。しかし、その人間たちが権利の復権を願う人々の「総意」ではないということはまず理解しておかなければならない。
「総意」が「相違」にならないようにしなればならないと僕は思う。
ちょっと続きます。
※権利を得るという言葉は使わずに「復権」と記すのは、元々我々人間に備わっている権利を一部の人間が奪ってしまったからである、得るものではないとか投げているからである。
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。