映画『バビ・ヤール』を観た感想
先日、京都シネマで現在公開中のドキュメンタリー映画『バビ・ヤール』を観た。心に残る内容だったので、感想を残しておきたい。
『バビ・ヤール』はドキュメンタリー作品であり、監督はセルゲイ・ロズニツァである。ベラルシ生まれ,ウクライナ育ちの映画監督。現代ロシア社会を鋭く諷刺したドキュメンタリー作品で知られている。
バビ・ヤールはウクライナで第二次世界大戦の時に起こったユダヤ人の大量虐殺事件を扱ったドキュメンタリーだ。ナレーションなどはなく、全編淡々と、当時の映像を集めたものが流される。しかしそこに、音声を追加されており、まるで戦場に投げ出されたような臨場感がある。ナレーションが無いからこそ、当時そこで起きていた現実に入り込むことができるように思う。ただ、ナレーションが無い分、一体どういう事件だったのか、事件の背景にどのようなことがあったのかということは分かりにくい。パンフレットを買ったのだが、パンフレットを読むことで、この映画への理解が非常に深まった。(普段あまり映画のパンフレットを買うことはないのだが、本作に関しては、買って良かったと思った。)
以上の説明でおおよそ、この映画の舞台が分かるかと思う。
ウクライナはソビエト・ロシアの構成国であったが、第二次世界大戦でナチスドイツによって占領された。その時、多くのウクライナ人はそれを歓迎した。映画では、街の中にヒトラーのポスターが貼られ、人々は喜んでいた。
しかしその時、何とかナチスドイツに一泡吹かせようとするソ連秘密警察がキエフに爆弾を仕掛け、ナチスドイツに打撃を与える。しかし、それにユダヤ人が関与していたという噂がナチスドイツによって作られる。
「すべてのユダヤ人は出頭するように」とナチスは命じるのである。そして出頭したユダヤ人たちは、窪地に丸裸にして並べさせられ、銃殺されて行った。その人数が33771名である。信じられない数である。
監督のディレクターズ・ノートには以下のような文章がある。
私がこの映画を観ていて感じたのは、まず現在ウクライナで起きていることが過去にも起きていたのではないかという事だ。
大国に挟まれるウクライナは、大国の思惑により、何度も占領されたり解放されたりを繰り返してきたのだという基本的なことに改めて思い至った。その中で映像では、そのたびごとに、街のポスターが入れ替わる。
スターリンのポスターが、ヒトラーのポスターに代わり、ヒトラーは解放者として歓迎された。人々はドイツ語を話す為政者を受け入れた…ように見えた。
かくも簡単に人は誰かのことを解放者、我々を救ってくれる英雄と見てしまうのか。そのことにクラクラした。もっとも、監督がすでに言っている通り、「当時の人々の感じていることを現代の私の感覚から断罪することはできない」。しかし、人間の本質というものを知る。今の現状をより良いものに変えると言ってやってくる力のある者に対し、人はその正体を十分に知ることなく、英雄視してしまう。さらに、今度は再び連合国側が、ナチスドイツを滅ぼした時には、今度は再びヒトラーのポスターが剝がされて、街はスターリンやレーニンのポスターで彩られて行く。その時にも人々は喜んでいた。変わっているのは「誰が上に立つか」ということだけなのである。もちろん人々はそのことになすすべもなかったのであろうけれども、反抗するというよりも、その事をまるで劇でも観ているかのように受け入れ歓迎さえしているのである。その事が恐ろしかった。いとも簡単に、前のリーダーを悪役にして、次の善きものと言って近づいてくる為政者を受け入れてしまう。この群集心理とも言える人々の姿が恐ろしかった。そして、それは今の私たちの在り方と何一つ変わらないのではないか?
つまりこれは、たまたま舞台がウクライナだっただけで、どこの国でも同じ事が起こるのではないか?
そして、最も恐ろしかったのは、ナチスが爆破事件にユダヤ人が関わったと噂が立ったとき、ユダヤ人に出頭を命じ大量虐殺をしたときに、市民たちは誰一人として抗議しなかったということである。たいした騒ぎにもならずに、すんなり、33771名のユダヤ人が殺された。ユダヤ人を匿う人は少なかった。そして、多くの人はユダヤ人の持ち物を所有することに関心を持ったのである。
それどころか、渓谷まで歩くことができなかった年老いた数名のユダヤ人は、隣人によって家から引き摺り出され石打ちによって殺されたという。この積極的なナチスへの加担。誰にもやれと命令されていないのに、市民が積極的に虐殺に加担した!
もしかしたら、これは今の日本でも同じことが起きるのではないか。コロナが始まった時、県で最初にコロナになった人の家などにものすごい嫌がらせがされた。ある食堂では○○人は入店を拒否するということが行われた。日本ではこのユダヤ人の虐殺は起きなかったか?いやもっと積極的に市民が協力して一致団結してユダヤ人をなぶり殺しにしたのではないか?
そうならないためには、まさに戦争でない時に、ヘイトスピーチや差別がいけないということに声を上げていないといけない。差別は駄目なんだということを教育しないと、戦争の時にそうした差別が市民の積極的虐殺という形で結実してくるように思う。だから差別はいけないんだ、許されないのだと思った。
そして、さらに考えたのは、この映画がとにかく群衆を写しているということだ。群衆にここまで焦点を当てた映画はあまりないのではないか?この映画には個人としての人間ではなく、群衆が沢山うつる。ナチスを歓迎する群衆。出頭を命じられ、集められるユダヤ人たち。戦争の終わりに、ナチスドイツの将校たちが絞首刑になるのをを見せもののように見て喜ぶ群衆。
戦争になると人間は群衆になってしまうのではないか。そして群衆という意味では、戦争に巻き込まれて行く市民も群衆となり個人性を失っていく。そして私がすごく不思議だったのは、立派でカッコいい制服を着ているナチスの将校たち、ソ連の将校たちも、殺されて行く群衆と同じように、丸裸にされて自己の尊厳を奪われつくされている存在に見えた。
もちろん、殺す側と殺される側を一緒にしてはならない。殺される側はたまったものではない、全く違う。しかし、その存在が個人の意思を失い同じ帽子と制服を着ているという点では全く同じに見えた。殺人を粛々と行い、権力の奴隷になっている死に体に見えた。いや、ナチスの立派な帽子をかぶっている将校たちの群れの方がより、遺体のように見えた。何か魂を失い、権力曰命令されるままの死に体に見えたのである。
戦争の恐ろしさを思う。
本作の最後のシーンは、戦争の終わりに連合国によってナチスの占領からキエフが解放される場面で終わる。それまで街にヒトラーのポスターが貼られていたのがきれいに剥がされ、スターリン・レーニンの肖像画が貼られて行く。またしてもトップの交代である。そしてそれを歓迎する人々。次々に頭だけがすげ変わる。
そして、広場に、ナチスのSSの将校たちが絞首刑になるために集められる。その姿を一目見ようと、恐ろしい数の群衆が取り囲む。
絞首刑の瞬間、人々は歓声を上げる。微笑んでいる人もいる。手を叩いている人もいる。全てが間違っていると思う。
もちろん、ナチスがやったことは許されない事だ。しかし人が死ぬということが見世物になるとすれば、何かが間違っている。
そこに悼むということがあって欲しいと願うが、それがない。カラッと人々は笑っている。もっと、何とも言えない嫌な気持ちを持ってほしかった。そういう表情をして欲しかった。しかし人々は歓声を上げているのだ。私もあそこにいたら、一緒に手を叩いたのではないか?いや間違いなく叩いたと思う。
この悼む心の無さが、カラっと明るいポジティブさが、33771名のユダヤ人を殺したのではないか?
人間に絶望せざるをえない映画である。
しかし、私たちはその絶望を知った上でなおも、自分自身に・人間に絶望しないために学ぶ必要があるのではないか?
この映画を観てどうせ人類は駄目だとなるのは単純すぎるだろう。
無念に殺されて行った人々は、そうしたことは望んでいないはずだ。むしろ、「あの時どうして止めてくれなかったのだ」、「止めろと言ってくれなかったのだ」と私たちは呼びかけられているのではないか?
呻き声は私たちに問いかける声だ。もっともしてはいけないことは、安易に人間とはこういう物だと決めたり、答えを見つけてしまうことだ。考え続け、学び続け、声をあげつづけることが私たちに出来る事ではないのかと考えた。(注意しておきたいのは、この映画はウクライナを舞台にしているが、どこの国でも起こる問題だと私は考えている。むしろ国境を越えて人の本質を描き出している作品であると考えている。)
終
参考文献
『BABI YAR. CONTEXT 公式ガイドブック』2022年、サニーフィルム刊
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?