修正資本主義の修正

2000年代に入ってからの日本の様子は、第二次大戦が起きる前の先進国での社会状況と似通っている。戦前、先進国では自由主義がはびこっていた。多くの労働者は低賃金にあえぎ、生活するのがやっと。その様子はチャップリン「モダン・タイムス」でも描かれている。

他方、経営者や資本家は大金持ちになった。貧富の格差が拡大し、貧しいものは貧しいまま、お金持ちはさらにお金持ちに。貧困に苦しむ人が裕福になる道はほとんど閉ざされていた。これに関してはトマ・ピケティ「21世紀の資本」で詳しく論じられている。「ゴリオ爺さん」を題材にして。

こうした貧富の格差への怒りが、二つの思想を生んだ。共産主義とナチズム。マルクスは「資本論」で、資本家がどうやってお金を稼いでいるのか、労働者がなぜ低賃金にあえぐのか、「資本」に着目し、その動きを解明した。マルクスはやがて「共産党宣言」を出し、ソ連などが成立した。

ナチズムはちとややこしい(第一次世界大戦の敗戦が原因で、天文学的な額の賠償を求められた等)が、これも貧富の格差への怒りが原動力の一つになっている。当時富裕層に多かったユダヤ人に狙いを定め、その財産を没収したりして、国民の人気を集めた(注・貧しいユダヤ人も多くいた)。

いわば、自由主義は共産主義とナチズムの生みの親、ともいえる。ただし反面教師として。自由主義が貧富の格差を放置し過ぎたために、その状況に対する怒りが、共産主義やナチズムを生み、富裕層の全財産を没収し、時に殺してしまうというという乱暴な動きを生み出してしまった。

自由主義の時代、なぜそんなにも貧富の格差を放置したのだろう?西欧はキリスト教の世界で、貧富の格差を嫌った宗教を信じていたはずなのに?一つには、当時の西欧で宗教がどんどん弱体化しており、資本主義の動きが激しすぎて制御できなくなっていたこともあるだろう。

もう一つ、「科学的に見える言い訳」が登場したことも大きかったかもしれない。当時、ダーウィンが進化論を唱え始めた。ダーウィンは、環境の変化に適応できた生き物が生き残る、「適者生存」と言ったのだけれど、どこをどう間違ったのか、「弱肉強食」の意味に読み替えられてしまった。

ウサギはライオンのエサになる。強いものが弱いものを食べる弱肉強食は世の習い、自然界の掟。経営者や資本家は強者で、労働者は弱者。ならば、弱者を強者が搾取するのは自然の成り行き、と、自由主義を信奉する人たちは考えた。科学的事実もそうなのだから、自分たちは悪くない、と。

しかし、虐げられた者たちの怒りのことを、自由主義の人たちは考えていなかった。そのことが、共産主義やナチズムを生み、富裕層の全財産を没収し、時に虐殺する、という極端な動きを生み出してしまったように思う。ライオンだったはずの富裕層は、食われてしまうウサギに変わってしまった。

第二次大戦で何とかナチズム、ファシズムを滅ぼすことはできた。しかし共産主義は戦後、むしろ勢いを増していた。というのも、欧米など先進国では、相変わらず貧しいものは貧しいままで、富裕層への怒りは薄れていなかった。西欧でもアメリカでも、共産主義者がかなりの勢力を持っていた。

このままでは、世界中が共産化してしまう。当時、ドミノ理論と言われ、このまま事態を放置すれば世界中がドミノ倒しのように共産主義国に変化してしまうだろう、と信じられていた。このことに、富裕層は強い危機感を抱いた。何せ、共産化したら全財産を没収され、殺されかねないのだから。

そこで登場したのがケインズだった。ケインズは、共産主義でもナチズムでもない、第3の道を提案した。修正資本主義。貧富の格差は、極端に開くのでなければ容認する。でも、富裕層が極端に儲けるのでは恨みと憎しみを生み出す。だから、その儲けを貧困層に再分配しよう、と提案した。

また、それまでの自由主義がやたら「生産」に軸足を置いていたのに対し、ケインズは「消費」に軸足を置いた。自由主義は、物が売れないならさらに大量生産して価格を引き下げれば売れる、という、ひたすら生産を増やす発想が強かった。しかしそんなことをすれば、労働者の賃金は上がらない。

たくさん作れば商品が余るから値崩れする。値崩れしても売れるようにとさらに安く大量に作ろうとすれば、低賃金に抑えられた上に労力は増える。労働者からしたら踏んだり蹴ったりとなる。それでも自由主義の人たちは、「安く物が買えるんだから、労働者にとってもお得」と唱えた。ところが。

安く物を買えるということは、安く物を売るということ。それは働く労働者の賃金を抑えるということ。そうすると、労働者はもっと安い物しか買えなくなる。デフレスパイラルに陥ってしまう。「安く大量生産」の結末は、労働者をこき使い、賃金を下げる方向に進めてしまう。これが自由主義の問題。

しかしケインズは「消費」に軸足を置くことで、この悪循環を断つことを提案した。これを理解するには、自動車王とも呼ばれたフォードの経営を見たほうが分かりやすい。フォードは、それまでの工場経営からしたら常識破りの方法をとった。労働者に破格の賃金を支払い、労働時間を短くしたのだ。

賃金は普通の労働者の3倍、週休2日、1日の労働時間は8時間まで。このフォードの改革に、当時の工場経営者や資本家は大反対したのだという。そんなことをしたら労働者がつけあがる、経営が破綻するからやめておけ、などなど。ところがフォードの改革は大成功した。

賃金を高くしたことで熟練工がやめなくなった。しっかり休みをとり、長時間労働をなくしたことで集中力が途切れなくなり、不良品率が大幅に下がった。しかも高給取りだから、労働者自身が自動車を購入し、お客さんにもなってくれた。

労働者に十分な給料を支払えば、労働者は購買力の高い「消費者」になる。少々値が張るものもどんどん買ってくれるから会社の業績も上がる。すると労働者にさらに賃金を支払いやすくなる。すると消費者は気前良く物を買うことができる。好循環が生まれる。フォードは、自らの工場でこれを実証した。

ケインズによる修正資本主義は、いわばフォードによるこの改革を理論化したものだったといえる。「生産」にフォーカスするのではなく、「消費」にフォーカスした経済理論を創り上げることで、消費が経済を好循環させるのだ、という発想を生み出した。これは共産主義にもない発想だった。

ケインズの提案した修正資本主義は、資本家や経営者が若干自分たちの取り分を我慢すれば、労働者は十分な給料をもらえて不満を持たなくなり、しかも経済全体が膨らむことで結果的に富裕層も儲かる。みんなウィンウィンな点で、共産主義とだいぶ違う。富裕層はこのケインズ流修正資本主義にとびついた。

戦後の「西側」と呼ばれる資本主義国は、共産化を食い止めるため、このケインズ流修正資本主義を採用することにした。共産主義国ほど極端に富裕層を憎まないけれど、富裕層に少し我慢してもらい、貧困層に再分配し、「中間層」を分厚くした。この方式は戦後、共産主義よりもうまく機能した。

共産主義は「結果の公平」を期するあまり、まじめに働く者もそうでない者も同じ給料となり、労働意欲を大幅に下げてしまった。これでは社会が沈滞してしまう。それでいて、政府首脳はぜいたくできたのだから、矛盾してしまう。共産主義は次第に行き詰まりを見せていった。

他方、ケインズ流修正資本主義では、出世すればするほど給料が上がるという見込みが立った。戦前ほどの極端な貧富の格差にならないよう、相続税も所得税も非常に高く設定されていたけれど、努力すればそれなりの高給取りになれるから、労働意欲は低下しなかった。

それでいて、労働者はそこそこの給料をもらえるので、社会全体として消費意欲が旺盛。消費が増え、企業の業績が伸び、だから給料がさらに増え、だから消費が増え・・・の好循環が生まれた。日本は「世界で最も成功した社会主義国」と呼ばれたが、それを実現できたのはケインズ修正資本主義のおかげ。

ソ連などの共産主義国は、修正資本主義で発展する西側諸国がうらやましくなり、結果的に多くの共産主義国が崩壊。民主化した。これで修正資本主義が世界を席巻するかと思いきや、共産主義が弱体化し始めるその少し前にアングロサクソンの国(イギリス、アメリカ)で変化があった。

イギリスのサッチャー、アメリカのレーガンが、今でいう新自由主義の考え方で経済システムを改造し始めていた。そのタイミングで共産主義国が崩壊したものだから、新自由主義が共産主義に勝った!と勘違いされた。実際には修正資本主義が共産主義より良い結果を出したということなのに。

その「勘違い」を増幅させたのは、やはり富裕層にあったように思う。共産主義国が次々に崩壊するのを見て、もはや共産化する恐怖を持たずに済むようになった。全財産を没収され、虐殺される心配をしなくてよくなった、と感じたらしい。ならば、修正資本主義をやめてもいいのでは?と考えだしたようだ。

それまで再分配の機能を果たしていた相続税、所得税が引き下げられ、お金持ちはがっぽりお金をもらったり次の世代に資産を残しやすくなった。法人税が引き下げられ、その分、投資家への還元を増やさせることにも成功した。お金持ちはますますお金持ちに。

こうした風潮が世界で広がる中、日本も2000年代に入り、本格的に新自由主義の方針をとるようになった。相続税も所得税も法人税も引き下げられ、富裕層がますます有利な社会システムに誘導。その一方、派遣労働などの規制緩和で、労働者の賃金を引き下げる方向に改革を進めた。

労働者の賃金が減った分、投資家など富裕層にお金が回されやすくなる仕組みがとられた。日本では、年収の平均値は414万円なのに、中央値は360万円。その差54万円。つまり、半分以上の人が平均より低い賃金に押しやられている。その分、高収入を得ている人がいる格好。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9218069cf00862cd1f3c03f5bb6d8ffcb1831d73#:~:text=doda%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%80%81%E5%85%A8%E4%BD%93%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3,%E5%86%86%E4%B8%8A%E6%98%87%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

新型コロナでついに生活できなくなった人が大勢現れた。このまま新自由主義の方針で貧富の格差を放置すれば、戦前のように共産主義やナチズムのような、富裕層憎しの社会思想が生まれかねない懸念があった。政府が慌てて賃金上昇について努力し始めたのは、この変化をかぎ取ったからだろう。

私は、すべての人が同じ給料を目指す共産主義より、若干の給料差は大目に見て、それを働く動機にもできるケインズ流の修正資本主義の方がマイルドで好ましいように思う。コロナ禍の前、修正資本主義になんか戻れない、と散々批判されたが、現在、社会はそっちに向かっているらしい。

ただし、修正資本主義も、さらに「修正」を加える必要がある、と考えている。ケインズは「消費」に軸足を置き、それを活性化させることで経済を上向かせることを考えた。ただし消費を単純に増やすことは、石油などを燃やし、二酸化炭素を増やし、温暖化を促すことになりかねない。

だから、経済学的な「消費」を増やし、経済を活性化させることは必要だけれど、化石燃料を燃やす「消耗」は抑え、二酸化炭素の排出を削減する必要がある。化石燃料の消耗を抑えた「消費」を増やす、というやり方をとる必要があるだろう。

昔は、排気量の大きいエンジンを搭載した高級車を乗り回すのが社会的ステータスだったが、いまや二酸化炭素を大量に排出するカッコ悪い車になりつつある。化石燃料大量消耗型の消費よりも、ネットでの低消耗型消費が増えつつある。こうした動きを加速させる必要があるのだろう。

問題は、ネットサービスは自動化されやすく、企業は雇用を減らして売り上げを伸ばそうとする。これを放置すると、わずかな知的労働者と経営者、投資家だけが儲け、多くの失業者は仕事を見つけられず、見つけても低賃金にあえぐということになりかねない。

いかに多くの人々に所得を分配するか、ということが課題になる。もしその分配には、必ず「労働」を伴わなければならないとしたら、ネットの仕事で雇用を増やさなければならないが、それが可能か?もしできないとしたら、ベーシックインカムで実施するのか?

ベーシックインカムを実施するのだとしたら、財源はどうするのか?財源論を言い出すと、MMT(現代貨幣理論)が登場して、財政破綻は起きないんだからジャンジャンお金を配ればいい、という話もあるが、本当に経済システムはそれで成立するのか?やはりネット企業や投資家に一定の負担を求めるのか?

などなど、考えなければならない課題がたくさん浮かんでくる。ただ、一つ言えるのは、新自由主義が行き過ぎると、戦前の自由主義が共産主義やナチズムを生んだように、極端な修正主義が生まれかねず、かえって富裕層に不利な社会になりかねない、ということ。極端は別の極端を生み出す。

現代の社会にあった修正資本主義とは何か、を考える必要があるだろう。しかも日本は少子高齢化で、今後、労働者が決定的に不足していく。「Fire」と言って、ある程度お金を貯めた後、仕事をやめてそのお金のやりくりで働かずに生きようとする人も目に付くようになってきた。しかし。

いくらお金があっても、労働者がいなければサービスを受けることはできない。ロボットや人工知能が労働者の代わりを完全に果たしてくれるのなら、あるいはそれは可能なのかもしれないが、ロボットやAIの研究者に尋ねると「ないない、そんな時代こない、人間の労働は今後も必要」と言う。

ならば、少々お金を積んだところで、働いてくれる人を見つけることが難しくなるのかもしれない。となると、「これだけのお金があれば、働かなくても生きていける」と思っていた金額よりもさらに多額のお金でないと生きていけなくなるかもしれない。

ケインズ流修正資本主義が機能した時代は、人口爆発の時代だった。果たして、人口が減少しつつある社会で、同じように「消費を促す」ことで社会は回るのか?新たな経済システムを考える必要があるのか?私たちは、答えのない時代に突入しつつあるように思う。

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