人間の「存在」を決めつけても仕方ない、「関係性」が大切

昔のヒーロー物の主題歌に「正義」が多い、ということをつぶやいたら、それに関連して「正義を教えずしてどうやって子どもを育てられるのか?」という意見が複数。これはとても興味深い。正義は教えなければならないと考えている人がいる、ということ。で、「正義」について考えてみたい。

性善説、性悪説というのがある。性善説として孟子、性悪説として荀子を読んだりしたけど、どっちが正しいんだろう?と若い頃の私は悩んだ。気持ち的には性善説が正しいと思いたいのだけど、性悪説も説得力があって、一体どちらが正しいのか、わからなかった。そんな中、「韓非子」を読んだ。

その結果、「人間は人間でしかない、善(正義)とか悪とかは何らかの価値規準を持ち込むから出てくる話に過ぎない」と考えるようになった。人間は善でも悪でもない。人間は人間。

「韓非子」に次のようなエピソードが。隣の家の人が「垣根が壊れてるよ、泥棒が入るよ」とアドバイス。息子も同じアドバイスを父にした。放っておいたら本当に泥棒が入った。息子は先見の明があると言って喜び、隣人には「あいつが泥棒なんじゃないか」と疑ったという。こういう話を聞くと。

性悪説を信じたくなってしまう。でも「韓非子」にはこんなエピソードも。
孔子の弟子の子皐(しこう)は裁判官をしていて、ある男を足切りの刑に処した。王様に孔子一行が恨まれ、国外に逃げようとしたが包囲され、絶体絶命のピンチに。そのとき、足を切られた男が逃亡を助け、一命をとりとめた。

子皐は「私はお前を足切りというひどい罰を与えたのに、どうして助けてくれたのか」と尋ねると、男は「あなたは私の事情を理解し、なんとか罪を軽くしようと懸命に考えてくれているのがわかりました。私が足切りになるのはルールだから仕方なかったのです」と。

この話なんかを読むと、性善説を信じたくなる。足を切られるという重い罰を受けることになっても、なんとかその罪を回避できないかと考え、努力しただけで、結果的には重い罪を与えねばならなくなっても、それを許せるなんてとこを見ると。

でもそれは、「人間だから」なんだと思う。善とか悪とか正義とか、関係ない。人間はそうした状況に置かれたとき、そう行動せずにはいられなくなる性質があるらしい。それは時には攻撃性であったり、寛容であったり。どちらに転んでも、人間は人間。

ならば、人間を善だとか悪だとか、「存在」を決めつけるのではなく、人間の好ましい性質が現れやすい「関係性」を構築できるよう努力したほうがよい、と考えるようになった。ひどい反応を促しやすい関係性ならひどい反応が出てきやすくなる。好ましい関係性なら好ましい反応が出てきやすくなる。

結局、性善説も性悪説も、「存在」を決めつけているところが問題。人間なんて、ドンナ関係性になるかで反応はまるで変わるのに。最初のエピソードでは、父子と隣人とでは関係性が全然異なる。だから反応が違っていた。

後者のエピソードでは、もし「お前なんか足切りどころかもっと重い罪でもいいんだぞ」みたいな、見捨てるような目で対処していたら、孔子一行は絶滅していただろう。関係性が違うことで、まるで異なる反応が出てきた。同じ人間であっても、関係性によって反応は大きく異なる。

人間という「存在」を、性善とか性悪とか決めつけるのは、恐らくナンセンス。人間は関係性次第で大きく変わってしまう。器の形に変化する水のように。水という「存在」を丸いもの、四角いものと決めつけてもナンセンスなのはすぐにわかる。器との関係性で形が決まるのだから。人間もそう。

だから私は、善悪とか正義とかを考えず、人間は人間でしかない、と考えるようにしている。人間と、それをとりまく環境があるのみ。そして関係性次第で、人間は好ましい反応を示すこともあれば、凶暴な反応を示すことがある。ならば。

存在を云々するより、どちらに盛儀があるとかを考えるより、関係性をどうするかを考えたほうがよい、と思うようになった。だから、子どもたちに正義や善について語ったことはないし、教えるつもりもない。そうではなく。

どんな関係性に持ち込めば、お互いに好ましい気持ちになれるか、ということに知恵をしぼることを、子どもたちと共に考えていきたいと思っている。相手の存在を「あんな奴ら」と決めつけず、どんな関係性にシフトするか。そこに知恵をしぼりたい。

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