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中華の日々⑩ 東の男、野生のギターにつき

私のギタースタイルは自分で言うのもなんだが異端の部類だ。
といおうか、私はギターをまっとうに学んだこともなければ、練習したこともない。
究極的にいえば、私はギターを知らない。

楽譜は読めない。タブ譜はわかるが、面倒でちゃんと弾こうとしたことがない。他人のコピーをするなど考えたことがなかったからだ。弾き始めから、自分の曲を作る事しか考えていなかった。15歳まではギターの単弦弾きかベースで作曲していた。それからパワーコードを弾けるようになった。

それでパワーコードでバラッドを作ったら、「いくらなんでも最低限のコードぐらいは覚えろ」と高校当時の仲間が教えてくれた本当に最低限の数種類と、あとはBマイナーぐらいしかコードを知らない。ずっと「なんか知らんが、ここを押さえて弾いたらいい音がする」という方式で弾いてきた。そもそも自分は歌手で、ギタリストではないと考えていた。なお、この精神は今も変わっていない。私は間違ってもギタリストではない。

しかし、いくらギタリストではないにしても、いくらなんでもあんまりではないか。ギターに思い入れがないのか? 事実、30歳でいったん音楽を止めてから、ベトナムでギターが好きになった34か35歳まではなかった。ギターはただの作曲のための道具だった…しかし、作曲のための道具なら、それはそれでちゃんと作曲のためにコードや理論を知っておけという話だ。本当にもう、めちゃくちゃだ。

ともあれ、ベトナムで太陽に浮かされてギターが好きになって現在に至る。ただ、好きになってからも勉強はしていない。ひたすら弾き倒してきただけだ。もちろん、その時がきたら勉強というものをするつもりではいる。いまだにその時が来ていないだけだ。もはや、あの世からのお迎えが来るのとどちらが早いだろうかという気もするが。

このようなわけで、私はいつも自分のギターについて説明に困る。
今回も中国は深圳のギターショップのオヤジたちから、
「おまえの、その架空の民族の音楽みたいな…とりあえずクレイジーなギターだけど、いったいどこで習ったんだ?」
そう言われても、こう言うしかない。
「習ったことはない。練習したこともない——いや、そりゃあ早く弾けるようにとか、滑らかに弾けるようには練習したけれど」

ただ、わがチャイナ・ブラザーズたちはギター野郎たちだったのでそれでも納得してくれたわけだが、ギターを弾かない人には私の言い分が伝わらない。ベトナムでもそういうことは多々あった。声をかけてくれるのはありがたいが、スマホなどを見せてきて「この曲を弾いてよ」とキラキラした目をされてはたまらない。「いや、弾けないんだよ」「え? だって弾いてるじゃない」「いや、他の人の曲は弾けないんだよ」「・・・へえ」と言うその目は気違いを見るそれに変わっていた、ということが何度あったか。

中国の公園。そこで得体の知れない民族音楽みたいなギターを弾いていたら、そのうち市民から通報を受けた警察がやって来るかもしれない。そのとき、谷村新司先生の「昴」が弾ければ話が変わってくるだろう…とは思いながらも、【練習するのが面倒くさい】が勝ってしまっている。
「ひとところではなく、複数の公園を転々としながらギターを弾けば通報もされないのではないか」
ということをひらめいたので、それで転々とするための候補の公園を探すことにした。

そんなわけで自転車で東奔西走している今日この頃だ。どこまでふざけた動物なのだろう。いみじくも、ある友人が笑いながら言った。

おまえのは野生のギターだ、と。


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