二つ三つの話をば

今日寒くてね。寒いから鍋食うっていう将にオッサン的思考で、材料買って来たんですよ。まあ、言っても私、ビズでもリーチでも何でもない唯の市井のオッサンなんで、そこんとこよろしく(時節柄)。
いやあ、割とワクワクて感じで用意しましたよ。鍋の材料ね。
でね、ここに態々書くくらいなんで、はい食べました美味しかったです、で終わる訳ないっていう。何となくお分かりかと思いますけど、事件勃発した訳ですよ。
言っても、大したことじゃないんですけど。なんせこれ書いとかないと、次に繋がらないんでしゃあなしで書いてます。はい。

話戻しますけど、さて作るかってなったら、あれ? 土鍋割れてんじゃん、確認しとけや、使えねえな俺、ていう。軽く自己嫌悪ですよ、普通なら。でもならない。そうはならない。
だって、言っても土鍋じゃなきゃ鍋できないわけじゃないんでね。はい。さすがに、片手やら両手やら金属製の鍋持ってるんで、こちとら。全然問題ないです。

そんなことがありまして、ちょっと引っかかったて言うか。
破れ鍋に綴蓋伏せてなんたらかんたらいうじゃないですか。あれ。破れ鍋じゃどうしようもねえだろつう、何その諺? みたいなやつね。あれなんすかね? 訳分かんないすよね。
あとあれ、身も蓋もない、て言う奴ね。これもその手合いでしょ? 似た感じ? なんか知らねえけど。知らべたら、この「身」て「中身」じゃないのね。知ってた? 「中身」じゃないんだよ、あれ。鍋の本体てことらしいです、はい。それはそれで意味分かんなくないすか? 「身」て。「身」じゃねえよ、て言う。「体」ならまだ何とかあるかなて言う、そんな感じ。

時代経ると、なかなかね。難しいすよね。言葉なんてコロコロ変わっちゃうんで。 
大昔なら、それ分かるわてなってたとしても、今となっちゃチンプンカンプン(これも訳分かんない)ていうの出てきちゃいますよね、どうしても。

「二十四孝」ご存じですか? こいつなんてもう最高に訳分かんないですから。ご存じない方に、簡単に説明しますと、古代中国で後世に範を示すべく、特に優れた親孝行者24人の逸話をまとめた書物です。「孝」て言うのは儒教の教えの重要な柱のひとつね。「親孝行」とかそういう感じ。儒教が根底にある訳だけど、まあ、凄いですよ。訳分かんなくて。長くなるので、ここでは取り上げません。興味湧いたらどうそご自身の目でお確かめください。
でまあ、これ、現代人視点だから意味不明て言う訳でもないようで、割と昔から、これおかしいだろ、何なの? て思われてたようです。
これネタにした落語までありますからね。「二十四孝」て言うそのままの題なんですけど。内容も大袈裟に茶化したて言うよりも、「二十四孝」そのまんまな感じです、割と。

著名人もディスってます。明治の有名啓蒙思想家もディスって曰く、以下の通りですよ。

いやしくも人心を具えたる者なれば、誰か孟子の妄言を信ぜん。(中略)古来和漢にて孝行を勧めたる話ははなはだ多く、『二十四孝』をはじめとしてそのほかの著述書も計うるに遑あらず。しかるにこの書を見れば、十に八、九は人間にでき難きことを勧むるか、または愚にして笑うべきことを説くか、はなはだしきは理に背きたることを誉めて孝行とするものあり。(福沢諭吉「学問のすすめ」)

かなりですよね、これ。でもまあ本当にこの通りなんでね。ここまでディスられてもしゃあないていう。
なお、ここで言う「孟子の妄言」ていうのは、「儒教」の事でしょうね。

我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

「君忠親孝」て言ったら儒教。つまりこの龍之介の言葉も儒教を指していることになり、「親に孝」な24人の逸話集なる「二十四孝」も含まれていると言えましょう(超拡大解釈)。ディスって曰わくではないですが。

因みにこの儒教の「君に忠」なることに特に重きを置いたのが「死ぬことと見つけたり」でお馴染みの「葉隠れ」が示した、武士の世界ですね。

兎に角ね、思いましたよ。儒教はすっかりこの時代向きじゃねえな(元からズレてるかも知れないけど)、昨今の親ガチャだ政治家の為体だのなんだかんだで「親に孝」はまだしも「君に忠」は全然ないわ、てね。

鍋島論語とも、ていう話

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