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〔投げ銭〕令和が辞書に載ってました

調べもののため、大漢和辞典を見ていたら、令和が辞書に載っていました。

添付した画像をご覧ください。

意味「字号」

字は、古代中国において本名とは別に、成人男性が名乗る名前でした。

『大漢和辞典』(大修館)によると「令和」を名乗った中国の官僚・軍人は、以下の3名になります。

①趙邕(ちょう よう、生年不詳 - 525年)

②江謐(こう ひつ、431年 - 482年)

③乞伏慧(きつぶく けい、生没年不詳)

彼らの生涯については、ちゃんとした書籍による情報ではありませんが、後述に添付したWikipediaを参照していただけると幸いです。

さて、彼ら3名の人生を簡単に振り返ると、以下のようになります。

趙邕(ちょう よう)は、陽氏に拷問を行い、冤罪を訴えられた結果、死罪相当の罪と判断されたうえで、官爵をはく奪されました。

江謐(こう ひつ)は、脱位をそそのかした疑いで弾劾され自決をしました。

乞伏慧(きつぶく けい)は、煬帝の行幸の折に煬帝の怒りにふれ、死を命ぜられましたが、最終的には官爵はく奪という形で処分をうけました。

典拠となった『万葉集』や漢籍である『文選』などからは、「令」はよい意味であることは、拙稿でも申し上げました。

しかし、字から考えると、「令和」を名乗った人々の人生は、決して良い人生だったとはいえません。むしろ、悪人として評価されていることに気づくかと思います。

名は体を表すという言葉があり、言葉には言霊が宿っているともいわれます。「令和」の年が、乱れる年でありませんように祈り、退位の儀関連のニュースをみつつ、改元を迎えようと思います。

(参考資料)

以下、Wikipediaより転載。

①趙邕(ちょう よう、生年不詳 - 525年)

趙怡の子として生まれた。少年の頃、司空の李沖の家に出入りして、雑役をつとめ、李沖の諸子の遊び相手となった。太和年間、孝文帝の側近に仕えて、殿中監に上った。宣武帝が即位し、親政するようになっても、引き続き殿中監の任にあった。殿中監のまま、殿中将軍に上った。

宣武帝が外出するたびに、趙脩が常侍・侍中として陪乗し、趙邕が兼奉車都尉として轡を執ったため、当時の人に「二趙」と称された。南陽郡の出身だったことから、給事中・南陽郡中正に任じられたが、父が荊州大中正の任にあったために辞任した。長兼散騎侍郎・領左右・直長となり、禁中に出入りした。さらに荊州大中正の任を受けた。

宣武帝が死去すると、趙邕は給事黄門を兼ね、まもなく太府卿に転じた。平北将軍・幽州刺史として出向し、州では収奪をほしいままにした。范陽の盧氏との婚姻を求め、娘の父が早くに亡くなっていたため、娘の叔父の許可を得たが、娘の母が許さなかった。この母は北平の陽氏の家に娘を匿ったため、趙邕は陽叔を拷問して死に至らしめた。陽氏が冤罪を訴えたため、朝廷は中散大夫の孫景安を派遣して事情を調べさせ、趙邕は死罪に相当するとされたが、赦免を得て、官爵の剥奪にとどまった。525年(孝昌元年)、死去した。

②江謐(こう ひつ、431年 - 482年)

尚書都官郎・呉県令の江徽の子として生まれた。453年(元嘉30年)、劉劭のために父が殺害されると、江謐は獄に繋がれた。武陵王劉駿が建康を平定すると、江謐は出獄することができた。奉朝請を初任とし、輔国行参軍・于湖県令をつとめた。465年(永光元年)1月、湘東王劉彧が南豫州刺史となると、江謐は劉彧の側近で仕えた。同年(泰始元年)12月、劉彧(明帝)が即位すると、江謐は驃騎参軍となった。後に尚書度支郎に転じた。まもなく尚書右丞兼比部郎となった。

468年(泰始4年)、江夏王劉義恭の十五女が19歳で死去した。礼官は成人の礼で葬るよう意見したが、尚書左丞の孫敻が『礼記』の規定に反するものと訴えた。博士・太常以下の官が処罰され、江謐も連座して杖罰を受けた。江謐は孫敻が誤った議論を主導したと訴え、処罰を求めたため、孫敻も処罰を受けた。

469年(泰始5年)、江謐は建平王劉景素の下で冠軍長史・長沙郡内史として出向し、湘州の事務を代行した。その統治は苛酷であり、江謐は僧遵を微罪で捕らえて郡の獄に繋ぎ、餓死させた。このため糾弾を受けて召還された。472年(泰豫元年)、明帝が死去すると、江謐は赦免された。正員郎となり、右軍将軍の号を受けた。

474年(元徽2年)、蕭道成が南兗州刺史となると、江謐はその下で鎮軍長史・広陵郡太守となった。入朝して游撃将軍の号を受けた。476年(元徽4年)、建平王劉景素が反乱を起こして殺害され、劉景素と親しい人々は処断されたが、江謐はひとり禍を免れた。477年(元徽5年)、後廃帝が廃位されると、江謐は蕭道成と結び、本官のまま尚書左丞を兼ねた。同年(昇明元年)、黄門侍郎となった。沈攸之の乱が起こると、江謐は蕭道成に黄鉞を加える議論を起こした。478年(昇明2年)、沈攸之の乱が鎮圧されると、江謐は吏部郎となった。太尉諮議に転じ、録事参軍を兼ねた。479年(昇明3年)、蕭道成が斉王となると、江謐は右衛将軍の号を受けた。同年(建元元年)、蕭道成が斉の皇帝として即位すると、江謐は侍中の位を受けた。臨川王平西長史・冠軍将軍・長沙郡内史・行湘州留事として出向し、豫章王蕭嶷を補佐して長史をつとめた。永新県伯に封じられた。481年(建元3年)、左民尚書となった。吏部尚書に転じた。482年(建元4年)、蕭道成が死去すると、江謐は病と称して入朝せず、不満を抱いているのではないかと疑われた。武帝が即位したが、江謐は官の異動がなく、これを恨んだ。ときに武帝が病床についたため、江謐は豫章王蕭嶷のもとを訪れて、奪位をそそのかした。武帝がこれを知ると、江謐に征虜将軍・鎮北長史・南東海郡太守への出向を命じた。出発しないうちに、武帝は御史中丞の沈沖に命じて江謐の前後の罪を弾劾させた。このため江謐は死を賜った。享年は52。

子の江介は建武年間に呉県令となったが、民間で死人の髑髏が江謐の首として掲示されると、江介は官を捨てて去った。

③乞伏慧(きつぶく けい、生没年不詳)

金紫光禄大夫・第一領民酋長の乞伏纂の子として生まれた。若い頃から弓や馬を得意とし、鷹や犬を好んだ。東魏の高澄のとき、行台左丞となり、蕩寇将軍の位を加えられ、右衛将軍・太僕卿に累進した。爵位は永寧県公から宜民郡王に進んだ。兄の乞伏貴和が軍功により王に封ぜられたため、一門に二王を出し、貴顕と称された。北周が北斉を平定すると、乞伏慧は北周に降って、使持節・開府儀同大将軍に任ぜられ、佽飛右旅下大夫の位を受けた。後に熊渠中大夫に転じた。

580年、楊堅が丞相となると、乞伏慧は韋孝寛の下で尉遅惇を武陟に討ち、当たるところみな撃破して、大将軍の位を受けた。尉遅迥が平定されると、位は柱国に進み、西河郡公の爵位を受けた。官爵を兄に譲りたいと願い出て、朝廷は許さなかったが、世論は乞伏慧の行いを義とみなした。581年、隋が建国されると、曹州刺史に任ぜられた。曹州の戸籍帳簿は実態を反映していなかったため、乞伏慧は車を下りて巡察し、数万戸を新たに登録した。涼州総管に転じた。涼州はしばしば突厥の侵入を受けていたため、乞伏慧は烽火による連絡を厳重にし、遠地に斥候を派遣して警戒した。1年あまりして、斉州刺史に転じ、戸籍を調査して数千戸を登録した。寿州総管に転じた。同年、寿州刺史に左遷された。在職すること数年、徐州総管に転じた。年は70歳を越え、隠退を願い出たが、許されなかった。荊州総管に転じ、潭桂二州総管三十一州諸軍事を兼務した。あるとき簺に魚を捕らえた者がいるのを見て、絹を出してこれを買って放してやった。人々はこれを美談として、その場所を西河公簺といった。秦州総管に転じた。

604年、煬帝が即位すると、乞伏慧は天水郡太守となった。609年、隋軍が吐谷渾を攻撃したとき、西方の民衆は労役に苦しんでいた。煬帝が西巡すると、道路は整備されておらず、献上された食事は粗末なものであったので、煬帝は怒って、側近に命じて乞伏慧を斬らせようとした。乞伏慧の髪がないのを見て、一命を許し、官爵を剥奪して民とした。後に乞伏慧は家で死去した。

(終わり)

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