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子育てとは「孤独な推し活」なのかもしれない。

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第一子が産まれ、早9ヶ月が過ぎた。

ひと月が光のような速さで過ぎていく体感に圧倒されながら、あうあう微かな声を出すことしかできなかった彼もハイハイの真似事を始めたり、いないいないばあで大笑いをするようになった。

うんこは漏らすし、ヨダレは垂らすし、最近は用意した離乳食をひっくり返された。夜に打ち合わせが入った日に限って寝付きが悪く、寝かしつけが間に合うかとチキンレースをした夜もある。そんな小さなハプニングに翻弄されながら、溺れながら泳ぐような毎日を過ごしている。

産前に読んでいた育児漫画さながらのエピソードもいくつか経験をしたと思う。

泣きたくなる日がなかったといえば嘘になるし、全てが回らなくなって実家に一時避難したこともあった。夕方には力尽きて、何も手につかない日が数えきれないほどにある。しかし、このマガジンで散々に産前うめき散らした文章をしたためた私だからこそ、あえて今、声を大にして言いたいことがあるのだ。

実はその、ちょっと言いにくいのだけれど、肝心の息子が思ったより10000倍可愛いのである。

産後の心境変化

これは本当に大誤算であった。

散々わたしは産む前の不安や社会への恨みつらみ、自分というアイデンティティが消えてしまうのではないかという葛藤に苛まれながらも子供をもうけるという決断をした。

つわりの症状は平均より、恐らく重めの部類だったと思う。田舎への里帰り出産の関係で無痛分娩が叶わず、普通分娩でそれなりの陣痛および出産の痛みを味わったし陰部の痛みは数ヶ月続いた。

仕事を3ヶ月で復帰した時は、正直めちゃくちゃ後悔した。こんなにも体と気力が付いてこないことを想定していなくて、心身と共に何年もかけて整備し続けた自己肯定感があっという間に崩壊して久しぶりに鬱っぽくもなって精神科にお世話にもなった(これについてはまた別の機会に話そうと思う)

間違いなく自分の生活は一変したし、仕事とのバランスは未だに非常に難しい。出張も飲み会も、相方の協力なしには1人で行動するわけにもいかない。オムツ代やミルク代や、保育料でお金だって無慈悲に出て行く。

これまで思いつきで「明日から登山で3日消えます」と行方をくらますような奔放さを持っていた自分にとって、どう考えても天変地異と名付けてもおかしくないほどの大変な変化量であった。

責任感が強い自負はあるので、子供が生まれて「面倒が見切れない」と言う心配はなかった。しかしその腹落ち度というか、納得感を持って子供と共に自分の人生を歩んでいけるのか、という雲を掴むような気持ちだけが私の腹の奥底でヘドロのように澱み佇んでいたように思う。

しかし、である。

これは本当に不思議なことなのだが、日々の困難さはまあけれど、それでも息子の「可愛い」が鰻登りに止まらないのである。

日増しに可愛い魔法にかけられる

冷静に考えると、もはや詐欺に騙されているとしか思えない。

自分の時間は縛られ、行動に制約が伴い、金銭的な負担もどんどん増している。母乳もあげているので、服装にも前が開きやすいシャツが良いなど多少の縛りもある。食事の時間は毎回30分から長いと1時間は取られ、本を読む気力すら残っていない週末も珍しくない。

時間的にも身体的にも、自由とは対極にいるような生活である。

心身的にも実際辛い時もある。ホルモンバランスの乱高下には今だに振り回されているし、産後の下半身の痛みは本当に堪えた。夜中の授乳は無限のように眠く、理不尽さを感じる夜もあった。

しかしうんこを漏らされようが、乳首を強く噛まれようが、寝なくて夜に片付けようと思っていた仕事に全く手が付かなかろうが。それでも不思議なことに、私の頭と魂は声を張り上げて何度でもこう叫ぶのである。

「くっそ可愛いんだが」

可愛いという想定外

家にいる時、私は息子に対して「可愛い」しか言っていない気がする。転がっていても可愛いし、ミルクを飲むのも可愛い。くしゃみをしても鼻水を垂らしても可愛い。何ならハイハイしたり、こちらを見てニコッと屈託のない笑顔を見せようものなら、私は脳天をぶち抜かれたような衝撃に襲われて数秒間は身動きが取れなくなる。

もっと、1人の時間が欲しくなると思っていた。

たまには息抜きしようと相方に息子を預け、週末に1人で買い物に出かけたり、友人と飲みに行くことも間々ある。4月からは保育園も始まったので、日中の仕事の合間を縫ってひとりカフェに行くこともある。

こういう時、わたしは自分が「羽が伸ばせる!」とルンルン気分で出かけるのかと思っていた。30年と少しの間も内向的で、団体行動が苦手で、1人の時間が確保されていないと息が詰まるような性格をしているこの自分が「子供につきっきり」は絶対に耐えられないと思っていた。思っていたのだが。

蓋を開けてみれば、息子と離れる時間が増えるほどに「寂しい」という気持ちが湧いてくる自分がいるのだ。

1人カフェでコーヒーを飲んでいて、ベビーカー連れのお母さんを見かけると「いいな、私も息子と来たいな」と思う。友達と飲みに繰り出した時も、彼の笑顔が頭をよぎる。そこに「預けている自分」という罪悪感は一切ないのだが、単純に息子に会いたい、癒されたいという気持ちが無限に湧き上がってくるのである。

挙げ句の果てに、出張や登山などの出先で家族連れを見ると「私も家族で来たい!」と謎の対抗心すら生まれてくる。自分で息子を相方に預けたくせに、息子と2人時間を満喫している相方の嬉しそうな様子を見て「ずるい」と帰宅後の開口一番、徐に嫉妬を露わにする日もある。最近は相方と息子の奪い合いをしていると言っても過言ではないかもしれない。

一体全体、何に張り合っているのかは未だ謎のままである。

世の中の子供が全部可愛い

そしてこれも想定外だったのだが、子供が生まれてからこの世の子供が全て可愛く見えるようになった。

元々幼い子は好きではあったのだが、本能の問題なのか、子供を認知するスピードと頻度が爆発的に上がった。どこに行っても子供が目に入ってくるし、危なくないかとこちらまで目を配らせてしまう。

何より「可愛い」とか「愛おしい」のメーターがぶっ壊れたようで、道ゆく子供や赤ちゃんを見ては「可愛い」が頭の中で鳴り止まないのである。そしてその0.5秒後、息子に会いたい気持ちが爆発するのである。

これまで平均的にみんな「まあ可愛い」だったのが「超可愛い」になり、中でも自分の息子のメーターがぶっ壊れているように思う。また周りの子供を見て「可愛い」と喜びながら、おそらく頭のどこかで自分の息子を重ねていて「うちの子がこの服を着たら可愛いだろうな」とか「うちの子もここに連れてきたら喜ぶかな」とか「大きくなったら一緒にこんなこともできるんだ!」と言った息子にまつわる妄想が永遠に止まらないのである。

自分の息子という存在が、まるでアニメキャラやアイドルの「推し」のようなコンテンツ性を帯びているように思えた。

孤独な推し活

しかし、子育てにおける推し活は若干の「奇妙さ」を合わせ持っている。それは、家族以外のファンが(ほぼ)現れない、孤独な推し活であるということだ。

他人の子供を見て可愛いとはもちろん思う、友人の子供なら尚更だし、姉の甥っ子もとても可愛いと思う。守ってあげたいし、遊んであげたいし、健やかに育って欲しいと心から願ってやまないし、できることは手伝ってあげたいと思っている。

しかし、我が子への愛おしさはちょっとレベルが異次元である。

うんこをしている姿すら可愛いと思ってしまうのだから、一挙手一投足すべてに黄色い声援を送ってしまうほどのこの熱量はちょっと比べようがないし、対象も自分の子供へ向けたものに限る気がする。まだ私は孫という存在に出会ったことがないのでこの先にこの価値観が上書きされる可能性もなくはないが、今のところこの「我が子の特別感」は本当に目を見張るものがある。

また私は写真を趣味にしているので、とんでもない枚数の我が子の写真を撮っている。それをせっせと「みてね」という写真シェアサービスにアップし、両実家のじじばばに共有している。

最初こそ両実家への共有目的であったが、時間が経てば経つほど「自分で見返す」時間の方が長くなり、しまいには相方と私の双方が「今日アップした写真見て!可愛いから!」と撮れ高とその愛おしさを熱心に共有してくる始末だ。そしてここまで推しへの気持ちと素材が募ってくると、あの誘惑に駆られてくる。

そう「家族以外の人」にも見てもらいたくなるのだ。

ここは賛否ある領域なので私が是非を問うものではないが、子供の写真をSNSやInstagramにじゃんじゃかあげる人の気持ちがようやく分かった気がするのだ。

子供がいない人にとっては意味がわからないと思うかもしれないし、子供のプライバシーが気になるという話もネットでは散見される。もしくは子供というコンテンツを利用して、親が親自身の承認欲求を満たしていると感じる人もいるかもしれない。本当にそういう人もいるかもしれないし、実際の腹の底は本人しかわからないとは思う。

だけど実際に親になってみて思うのは、ただただ自分の「推し」の「可愛さ」を見てほしいだけなのかもしれないということだ。

子供は、家族しかファンがいない推しだ。広くてもじじばばやいとこなどの血縁者までだろう。それ以上のファンは子タレントにでもならない限りできないだろうし、実際問題として周りは共感しにくい。

それでも、自分の子供の可愛さを自分の中に留めておけない程のパワーがある。もっと誰かにも知って欲しいのだ、うちの子の可愛さと尊さについて。

それでも、可愛いは伝わらない

しかし残念なことに、この推し活はどんなに頑張っても「一定の境界」を越えることは中々ないように思う。他人にとっての可愛いと、やはり我が子の可愛いは本能的なレベルで一線を画すからだ。

もはや誰かにとっては「押し付けがましい」とすら感じて、産後急に子供の写真ばっかりを上げるようになった友人を疎ましく思うパターンがあるのもわたしは知っている。

わたしは多少人より多く発信をしている立場なので、長期的に見ると彼を不用意に巻き込んでしまう可能性は高いと自負している。だからどんなに可愛くても決して彼の顔は出さない、毎月何百枚と写真を撮っていてもだ。実際、言ったカフェや公園の写真で位置情報が漏れてしまうというリスクはあるし、将来的にネットの海に流された写真データが将来どんな使われ方をするのか私たちは保証することができない。

それが良いのかどうか、正しいのかという話は部屋の隅へ置いておこう。これはとても多面的で、道徳的及び思想的な価値観に大きく揺さぶられる内容であるからだ。

しかし重要なのは、この可愛さをこの解像度で享受できるのは「親の特権である」ということだ。

自分はこんな途方もない可愛さを私は毎日味わっているというのに、家族以外にそれは伝わることは決してない。それはどこかもどかしくて、どこか誇らしくもある。

人の子供を見て可愛いと思えなくても、仕方がないと思う。子供を持つまでイメージが湧かないと私も散々言ってきたが、本当にその通りだと思う。こんな腹の底から湧き出てくるような愛おしさを、それも本能的なものを経験なしに想像しようとすること自体が無理極まりないように思う。

そしてこれだけ可愛いと語りつつも「やっぱりみんな産んだ方がいいよ!」と言うつもりは毛頭ない。

つわりは本当にこの世の終わりのような辛さだったし、陣痛も産後の傷の痛みも私は忘れていない。乳首が痛すぎて呻き声を出しながら母乳をあげた日々もあった。仕事のプレッシャーと育児の掛け算でメンタルを壊しかけたのも、つい最近のことである。仕事と並行していると、なかなか時間や集中力が噛み合わなくてもどかしいと感じる時もある。瞬間瞬間での体力的な辛さやしんどさも間違いなくある。

しかし「きつい」と悲鳴をあげた次の瞬間、彼の笑顔でこちらまでニヤケ顔になる。可愛い、とにかく可愛い。

目の前の仕事の焦燥感は消えないけれど、とにかく目の前の彼が健やかであってほしいと願いながら、目の前でおもちゃで遊びまわる推しを眺めながら、私はひとり静かに黄色い声援を送り続けるのだった。

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