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やらないよりマシだから、私は肉まんとコーヒーを両手に5分走る。

最近、ちょっとだけ走るのにハマっている。

息子を抱えた相方が保育園に向かった後、わたしも追うように家を出て一駅ほどの距離があるコワーキングスペースに向かう。その短い道のりを、ほぞぼそと走るようにしているのだ。

まあ走るとは言ってもほんの5分程度のもので、それもPCが入ったリュックを背負ったまま。服装もランニングシューズを履いている訳でもなければ、小洒落たランニングウェアを着ているわけでもない。なんなら今朝はカフェラテと肉まんがどうしても食べたくて、コンビニでそれらを購入して両手が埋まっている始末であった。

どこからどう見ても、ランニングする人には見えない。

おまけに今日は小ぶりな紙袋まで肘にかけていたから、流石に今日ぐらいは走らなくても良いんじゃないかとサボり癖の思考が頭をよぎった。別に結婚式前のダイエットのように締切があるわけでもなければ、走るのが好きで好きで仕方ないような性分な訳でもない。

どちらかといえば走ることが「面倒だなあ」と思うわけで、走らなかったからと言って誰かに怒られる訳でもなければ、迷惑をかける訳でもない。それでもと、自分で自分の頭に少し遅れて話しかける。

「まあやらないよりマシだから、適当にやろうよ。」

それもそうだなと妙に納得して、わたしは両手にコーヒーと肉まん、肘には紙袋、おまけに背中にはPC入りのリュックを背負っていつもの道を駆け出した。おまけに今日に限ってアディダスのスタンスミスを履いているものだから、靴底の伸縮性とクッション性が皆無なためにペタペタと野暮ったい音が響いた。

秋の訪れを匂わせる、抜けるような晴天だった。

走り出すのは突然に。

夏の終わり、仕事の繁忙期を抜けた途端に張り詰めていた緊張の糸がぷつっと切れたのか異様な眠気に襲われていた。

調子に乗って仕事を詰め込むといつもこうだ。自分のキャパシティを齢30を過ぎても上手く扱いきれない自分に嫌気が指しながらも、この燻る気分と体調をどう整えようかとネットを徘徊していると、ふとXのタイムラインで知人のツイートが目に飛び込んできた。

嗚呼そうだ、そうだったと閃きのようなものが脳内を駆け抜けた。

わたしは最近、相当に運動をしていなかった。別に体重や体脂肪に困っているわけではないのだが、仕事柄デスクワーカーであるために慢性的な運動不足になりやすい。そんな状態がしばらく続くと、何故だか睡眠も取れているというのに妙な疲れやだるさか蓄積されてくる。

そういうときにふと運動をすると、妙に体が軽くなることがあるのだ。

実際、科学的にも脳がストレスを感じると副腎からコルチゾールというストレスホルモンが分泌されることがわかっていて、運動はその分泌を減少させる効果があり、継続することでそもそもの分泌量を抑えられることもわかってきている。さらに筋肉を動かすことによって幸せホルモンとも呼ばれる「セロトニン」まで分泌され、ストレスの原因が減って幸せを感じやすくなるという、大変よく出来た仕組みになっているのだ。

その効能を見聞したことをすっかり忘れていたわたしは、パソコンをパタンと閉じて「とりあえず走るか!」と分かりやすく家を飛び出した。

まあ走る体力は全然ないのでものの5分ほどでそのランニングは終わったのだけれど、わたしは気分が見違えるように改善したのを実感した。家に戻るとものすごく仕事が捗って、終わらせたかった仕事や書類が次々と片付いた。

その日の夜は、ずいぶん気分良く眠りについたのだった。

やる気を整備する日々

まあ恥ずかしい話ではあるのだが、この頃になって自分の「やる気」をスッと引き出したり、長く維持するコストが高くなっていることに薄々勘付いている。

先日コワーキングスーペースを契約した話にも通づるものがあるのだが、もう気合とかそういうもので自分をコントロールできなくなってきたらしい。純粋な体力の低下も影響しているのだろうが、環境を作ったり、苦手な運動をしたり、そういう物理的なもので自分を整える新しい「世話焼き」が必要になってきた。

それは自分の機嫌の取り方の応用編のようなもので、なんともまあ面倒な方向に自分が成熟しつつあるようである。

30歳を過ぎて数年が経ち、良くも悪くも立ち回りは多少上手くなった。昔に比べれば仕事で安定したアウトプットが出せるようになったし、生活に困らない程度には稼げるようになった。結婚をして子供が生まれたら目まぐるしい日々ではあるが、人生の楽しみ方が一層増えたようにも思えた。

じゃあそれで悟りを開いたかのような、安定した精神を手に入れたのかと言われれば、残念ながら程遠いのが現実だ。むしろ色んなことを経験し、知識を得て、色んな人生の分岐点に立たされては選ぶ日々の中で「この道でよかったのか」と何度も後ろを振り返ったり、周りの人たちがどこへ向かおうとしているのかを必死に気にしている自分がまだまだ内在している。

そしてそういう時は、やはりひどく疲れる。

いつまで経っても頭の中に反芻する自分会議が鳴り止まない。ああでもない、こうでもないと、正しさとかわかりやすい正解を求めて侃侃諤諤の脳内会議が次から次へと勃発する。しかもそれは朝だろうが夜だろうが、お構いなしに突然勃発する。

自分が体力的にも気力的にも元気な時はまあ相手にできるものの、最近は子育てという新たな要素が加わったためにHPもMPも枯渇していることが多い。そんな時にその不毛な自分会議に巻き込まれると、自分の中のネガティブな思考がぐるぐると撹乱して頭の中を支配されてしまう。

これはもう正解も終わりもない禅問答なので、はっきりいって「考えない」ことが解決策であることがわかっている。わかってはいるのだが、それではいおしまいですと幕を下ろせるのなら苦労しないわけで。でもそれで疲弊していると、やはり仕事とか私生活に少なからず影響が出てきてしまう。

そういう時の半強制的な対処療法として、朝にちょっとだけ走るようになった。これが本当に、テキメンに効くのだから不思議なものだ。

適当にやろう、やらないよりマシだから。

いわゆるランニングと聞くと、最低でも20分ぐらいは走るようなイメージがある。もしくは5キロとか10キロとか、距離を目安にしている人もいるだろう。

全くもって、その距離や時間を走る自信がない。

走るのが遅くて苦手意識の塊を持ち合わせている自分が、多分そんなに走ったらあまりの疲労感に襲われてしばらく使い物にならなくなる。もれなくその後の仕事を盛大にサボる予感すらある。

だから、5分で良い。

そして5分だからリュックを背負ったままでも良いのだ。今日は両手に肉まんとコーヒーがあったので、さらに走りにくかった。おまけに靴も悪いので、きっと走っている時のわたしの姿はさぞ滑稽だったことだろう。

それでも、走らないよりはよっぽどマシだ。

この適当さが、意外にも日常をうまく回してくれている気がする。仕事でも子育てでも習慣でも、どうしても完璧にやりたくなってしまうのが人間だ。恥はかきたくないし、失敗したくないし、どうせなら最短で最大の効果を得たいと思ってしまう。常に80点90点を安定して出せればそりゃいいけれど、人生にうねりは伴うものであってフラットな運用をベースに考えるのは現実的ではない。

そういう自分の特性を許容しながら、でも不貞腐れることなく前に進めるように。大きな課題は扱えるようになるまで細かく噛み砕いて、小さく手軽に日常に落とし込んでいく。

小さなマシを積み重ねてもう少し遠くまで、自分の足で歩けるようにと、祈るような気持ちを込めて今日も私は肉まんとコーヒーを両手に5分だけ走る。

やらないよりずっとマシだし、それが思いのほか自分を遠くへ連れ出してくれる兆しになると信じて。

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