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べぼや橋を渡って|岸本佐知子さんのこと【後編】

ねにもつタイプ」も「なんらかの事情」に負けず劣らず面白い。子供の頃のエピソードが出てくると、何かヒントがないか注意深く読む。

「かげもかたちも」という話では”幼稚園に上がった年から現在まで、数年のブランクをはさんで、ずっとOという私鉄の沿線に住んでいる”とある。私も生まれた時から今日までずっとO線である。(「なんらかの事情」で出てくる経堂駅は実名なのに、なんでO線はイニシャルなのか?)エッセイにはO線の電車から見える気になるスポットや景色のことが書かれているが、電車の窓から同じように眺めていたものもあるし、全く気づかなかったものもある。
S駅近くのボクシング・ジムは私も見るたびに気になっていた。某駅のホームの子豚がよだれを垂らしながら踊っているとんかつ屋の看板は、記憶にあるがどの駅だったか思い出せない。別の駅にある「波平レディースクリニック」の看板は知っている。波平をどうしても「なみひら」ではなく「なみへい」と読んでしまうのは私も同じだ。岸本さんはサザエさんの父がマタニティ・ドレスを着ている絵を思い浮かべると書いているが、私は波平が白衣を着て聴診器を持っている姿を思い浮かべていた。岸本さんの想像の方が面白く、ちょっと悔しい。


「一度きりの文通」は高校時代の「パン当番」のエピソード。白い袋に希望のパンと合計金額を書いてパン当番に渡すと、希望のパンが入って帰ってくるというシステムは、私たちの時代と全く同じだ。岸本さんたちのようにのパン屋さんとパン袋を介して文通をするようなことはなかった。岸本さんは同級生から「パン当番なんてあったっけ?」「パン屋は一人で、渡り廊下ではなくて講堂のホールに来ていた」などと言われているが、パン当番は確かにあった。そして私もパン屋は一人で講堂ホールにいた説を支持する。渡り廊下にいたのは、ゼリーやヨーグルトや飲み物を軽トラックに乗せて売りに来るおじさんではなかっただろうか。
しかし、私の記憶もあまり当てにはならない。私は昔のことを覚えていられないタイプで、特にエピソード記憶というものが人と比べて極端に少ない。(文章を書く仕事をするには致命的な弱点のような気もする。)パン屋についてのはっきりした記憶は、「A&B」という名前のあんことバターが挟まったパンがあったことぐらいだ。

「べぼや橋を渡って」という話では、”夜、眠れなくて目を閉じている時には、たいてい小学生の頃住んでいた世田谷の家の近くを歩いている”という一文に出くわす。新しい発見がありそうだと、わくわくしながら読み進める。

岸本さんは住んでいた社宅を出て駅の方に向かう。門を出て左に進むとドブ川があり、小さな橋がかかっている。欄干にはめ込まれたプレートには「べぼや橋」と書いてある。べぼや橋を渡ってさらに進むと左に青果市場がある。

べぼや橋の名前は聞いたことがなかったが、私はほぼその場所を推定することができた。そう、あのあたりには昔青果市場があった!

さらにその先の細い道を進むと、夫婦でやっている八百屋があり、おばさんの肩にはオカメインコがとまっている。

その時点でもう確定だった。オカメインコを肩にとまらせている八百屋はそうそういない。この界隈では有名な八百屋だった。

岸本さんは八百屋を通り過ぎ、駅の方に向かう。その先の古びたT医院も、銭湯も、むかで屋も記憶にあった。

岸本さんが住んでいたであろう社宅はほとんど目星がついていた。それは実家から徒歩5分もかからない場所だった。思った通り、岸本さんはとても近くにいた。岸本さんが小学校を卒業すると私が小学校に入学し、岸本さんが中高一貫校を卒業すると私が中学校に入学した。
だからなんだと言われるだろうか。だからなんなのか、私にもわからない。

***

今日も夕飯の買い物に駅の方に向かう。夕方のこの時刻は、駅の方から自宅へ向かって歩いている会社帰りらしき人々とたびたびすれ違う。毎日同じ時刻に会社に出社し、定時まで働き、自分のお金を稼いでいる人々。私の視線はつい下を向く。
ドブ川まで来ると駅はもうすぐだ。ドブ川は今は暗渠になり、川の上は遊歩道になっている。遊歩道と道路が交差する部分は昔橋だったところだ。今まであまり気にもとめていなかったが、遊歩道には昔の橋の名前を書いたプレートをはりつけた木杭が立っていた。
私が見当をつけた「べぼや橋」は、この橋の一つ隣にあるはずだった。べぼや橋にも杭が立っているだろうか。
私は橋のところで折れて遊歩道に入り、べぼや橋に向かった。うねうねと続く遊歩道の木々は太く大きく育っていて、ドブ川が埋め立てられてからの年月を物語っていた。遊歩道が次の道路と交差する場所まで歩くと、そこには先ほど同じような木杭が立っていた。

辺房谷橋

私はしばらくその木杭を眺め、べぼや橋を渡って、岸本さんが眠れない夜に想像したルートで駅の方へと向かった。

自宅に戻ってから「辺房谷」の由来を調べてみた。
「北沢用水の付近にあり、流路が変わった痕跡もあり水田は水害を被りやすく、畑は北斜面で上等とは言い難い地形のため、ヘボな谷地という意味が由来となっています」
「わが街経堂」より引用
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ここまで書いて私は、少し不安になっている。「べぼや橋を渡って」の最後に、岸本さんは「不思議なことに、あの橋のことは誰も知らないと言う」と書き、岸本さんの妄想なのか実話なのかわからない終わらせ方をしている。妄想と現実の境目がわからない世界はまさに岸本ワールドである。

べぼや橋は実在していた。しかも辺房谷橋だった。そして由来は「ヘボな谷地」だった。

こんなことを書いて岸本さんの世界を台無しにしたとご本人に思われないだろうか。「ちっ」と小さく舌打ちされるだろうか。舌打ちならまだいい。「棒の先にイガイガが生えた大きな鉄の球がついているやつ」で襲われたりしないだろうか。私は恐ろしくなって、急いで貝がらに潜り込むと、滑らかな渦巻き型のフタをぴったりと閉めた。(完)

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