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哲学対話3-B.「愚行」:当事者としての愚行

書いておかなければ時空の割れ目が閉じるみたいに,なにも思い出せなくなってしまう。そのため,哲学対話,読書会,映画鑑賞などのあと,「もやもや」が存在する場合には,すくなくとも24時間以内くらいの間に,文字にしておきたい。

今回は9名の参加,取りかかりとして10個の問いが得られた。

1. やったあとに「なぜ自分はあんなことをしてしまったんだ」と思うようなことを、人はどうしてしてしまうんだろう

2. 行動に移す前に、どうすれば自分の愚行に気づけるか

3. 「愚行」と呼ぶような行為は本当に愚行なのだろうか?。本当に「愚行」だと思う行為には「愚行」という名前はつかない気がする。

4. どうすれば他人の愚行をゆるせるようになるか?

5. 愚行だと分かっていて,それでもやりたい気持ちとは,いったいなんだろう?

6. 『愚行』はその最中に、自覚できるのか?振り返って思うことなのか?

7. 辞めたいのに辞められないこと

8. 愚かな行為であっても、価値があることはあるか? 愚行か否かは誰が決めることなのか?

9. 人の愚行は愛しいことがあるのに)自分の愚行を愛するのはなぜ難しいのか。

10.他の人から見て愚かと思われてしまうこと、自分にとって愚かだとわかっていてそれでもやること、どちらがやって楽しいかしら?

スタートの問いは,
辞めたい愚行をどうしてやめられないのか
に決まった。

哲学対話は基本的に
なにを話してもいいし,なにも話さなくてもいい。
だけどそれは,考えなくていいとか,適当にやっていいということではないと,今回思った。そういう態度は危険だと思う。なにも話さなくてもいい。けれども,その人なりにマインドフルにその場にいてほしい。ということ。
それは,もしマインドレスにその場にいるなら,哲学対話なんて本当に無駄な時間だと思うし,その「場」にとっても,水をさすみたいな,温度が上がりきらないというようなことが生じるように思うし,事故に繋がりやすいようにも思う。そして,それはただの依存症的な行為の一つになってしまう。

依存症的な行為,それは今回「愚行とは」と考えるなかで出て来た,バリエーションの一つだ。

あとで考えても意味がないような,ただ,不快ななにかの感情や症状を鎮静(あるいは活性化)させるための,妥当ではなさそうな,不合理な策。

哲学対話は,語られる具体的なことを参考にしながら各々が考えたいことを考えるという側面がある。

最初の問いを出した方が,私は愚行だと思いながらやめられない行為がありますが・・・と共有してくれたあと,問いかけた。

みなさんは,愚行だと思いながら,やめられないことありますか?

(哲学対話では,こうやって,小さな旗をビーチに立てるような行動から,考えることが始まる。)

別の方から,この問いへの返答のような,また別のような問いが立てられた。
若い頃は,愚行がプラスにはたらくというか,たとえば彼女の家に深夜に車を二時間とばして行くというようなことは,いまかんがえると「ヤバイ」けど,当時は愚行どころか,最もやるべきことをやっているという気持ちでいたと思うというようなことが語られた。そして

皆さんの愚行はやってるときも愚行でしたか?

というフラッグが立った。

また別の人がそれにこたえた。
自分はある会を主催している。その会を愚行だと言う人もいるが,自分では決して愚行などではないと思っている,と言った。
その方は,それと対比して,自分が過去に行った愚行の話もされた。
そして,それらの行動について評し「無駄だった」「そこには,何の教訓もない」と言われた。

(なるほど・・・愚行には「教訓」が残るものと,あるものがあるということらしい)

また,いくつかの愚行をシェアしてくれたあと,
いままだ話せない愚行と,話せる愚行がある,とも言われた。

心当たりがある。自分も,今回「愚行」というテーマを思いついたときに,いくつか思いついていた「愚行」は,どこでも話せる話ではないが,すくなくともこういったクローズドの場では,自分の口から言葉として出せる話である。しかしながら,自分の口から,まだ言葉として出せない話もある,また,正直には話せないどころか,自分でもふりかえりたくないという話もある・・・ような気がしてきた。痛い腹を探られる(痛くもない腹を探られる,の逆です),という気持ち。

そしてまた,話し手が交代した。その人はこういう提案を机の上に置いた。

幸せじゃない関係で,最終的に子どもが持てないセックスは愚行ではないのか・・・結果なきセックス・・・というのか。

なるほど。しかしセックスは・・・子どもを産んだことがない自分にとっても,愚行ではないように思った。ただ,場合によって愚行になるという意見には,考えてみるべき点があるように思える。

その人は続けて,

食べ放題も愚行じゃないか?

(なるほど。そういうのも愚行なのか。)
それはなんだ?食べるとは本来,生命を維持するためのものなのに,そうではなくお腹をパンパンに満たして動けなくなるほど食べるとしたら,それは愚かなことだと,そういうことなんだろうか。

給料が入ると風俗店に行き,自分のすきな行為をしてもらっているという人が,その続きに話された。

そのときは楽しいが,行ったあとに虚しくなる。終わったあとにお金が減ってる。そのあと,ひとりでカラオケに行き,絶叫しまくって歌う。そこまでしないと完成しない。

愚行とは,生きるために,そのときは,そうしないと仕方がないことではないかと。

また別の人が,
若い頃の恋愛の愚行は武勇伝のようにもきこえる。「愚行をしている自分が好き」ということはないだろうか?という考えを置いた。

そして「愚行」と「蛮行」がある,蛮行には救いがないが,愚かという字には愛を感じると言った。

「愛を感じる」という言葉の意味はよく分からないと思っていたが,いま書いていて
必死に生きようとしている努力のさまざまなあらわれを,愛おしく感じるというようなことかもしれないな,と捉えた。

また,ストレスが溜まった時期に,夜中のテレビショッピングをしてしまう時期があったという話がシェアされた。

毎回買ってしまうとお金がなくなっちゃうので,その人の工夫として「買うけど,翌日,期限までにキャンセルする」という方法を編み出したとのこと。

これをきいて自分は,摂食障害の食べ吐きと似てるな,と思った。
ただ,摂食障害のときは,食べても「吐かなくなること」が心理的に健康に近いような気がしていたが,買ってキャンセルするのは良い方法だ,と皆が感心しはじめたので,ちょっとよく分からなくなってきた。

SNSとかメールとかでも,送信取り消しをすると,ちょっと病的な気がして,変なこと書いちゃったなと思っても消さないときの方が,ちょっと健康に近づく選択をしたような気がするのはどうしてなんだろう。その行動を引き受けて,次のよりよい選択(つまり,次は食べ過ぎないとか,次は消すようなことはそもそも書かないとか)ができるようになるような気がしてるんだよな。

また誰かがこう言った。
愚行は冒険とも言えるのでは。

また別の人が
「世間から不適切とされるような状況でセックスしたとしても,セックスそのものは愚行ではない気がする」と言った。

私は(ああ,なんということを言うのだ)と思った。

セックス自体は愚かじゃない。
そうかもしれない。むしろ。そこへむけて段取りしていく自分や,そのあとの気持ち。それがなにか,愚かさと繋がっているのでは。

この考えには,落ち着かない気持ちにさせられる。
(私はこの問題を宙ぶらりんのまま放置する。いま取っ組み合う必要はない。相手は大きくて強い)

それからまた,別の人が言った。
その人も風俗店で自分のしてほしいことをしてもらっていたのだけど,
ある日,相手が自分の意図を汲み取ってくれず,まったく気持ち良くないということがあった。
そのとき,その人は,気持ちよくないけど気持ちいいふりをしてみた。やってみて,「本当にバカなことしてると思いました」と言っていた。
(なるほど。目的があってそもそも「バカなこと」と評されがちなことを,分かってやってるのに,そこで目的が果たせないことが分かったときに,いったん最後までつき合う,それも丸く収めようとする努力をしていること,それをちょっと外側から自分で眺めてしまったとき,バカさ加減が指数関数的に増大するのかもしれないと思った。)

また別の人が,
「健康のためにやってることが愚かだった」という例を話された。
それはnashという栄養満点のお弁当を毎日食べることの利点としんどさについてのブログの話。効率よく栄養を摂取することが食事の唯一の目的ではないということがよくわかる話。

そしてまた,自分でも「あまりよくない」と思う依存症の傾向があったが,少しずつ違う(よりよいと思われる)依存症にうつっているような気がする,という話も共有された。
その例は筋トレであった。
「これに依存することは愚かではないと思えるような気がした」と話された。無駄になってないという感覚があるからだ,という。
またふりかえって,「あまりよくない」と思う依存症については,それを通して,自分が生きていることを確認していたような気がするが,愚かだったと思うとのことだった。

何が愚かなのかというと,
「自分が愚かじゃないと確認したくてやっている行為自体が愚かだった」
という。
言葉遊びではない。「自分が愚かじゃないと確認すること」を続けているだけ,というループも存在するもんね。

また別の人が言った。
愚行って本当に,一体なんなんだろう?と考えていて,
三浦春馬さんが自殺したときに,ある人が
・なにかに依存してもいいから生きていてほしかった

と言ったことを思い出している,と言った。
そして,愚行に逃げられることがその人を生かしているかもしれない。でも渦中にいるときは,それが愚行のように思える。
と。それから,ご自身の強迫的な行動について,施錠確認を30分ほどしてしまうことがあり,これがなければもっと睡眠時間がとれるのに,と思いながらもやってしまうその行動について,時短ばかりを追い求める風潮への自分なりの意思表明のものなのかもしれないと思うというようなことが語られた(ような気がする,後半は自分の記憶違いかもしれない)。

わたしはその話をきいていて,強迫行動をしてしまった時間を過ごされたこの人,それをいまこのように眺めながら話しておられるこの人のことを愛おしいと感じた。

また次に,躁うつを持っているという方が話された。

躁状態になると金遣いが荒くなり,上司にもたてついたりするようになり,
予定を詰め込み,大風呂敷を広げてしまう
それはほとんど妄想に近く,言いふらした結果,だいたいやばいことになり,
ひろげた大風呂敷をたたむことは,躁状態をぬけて抑うつ的な状態になったころに,自分がやらなくてはならなくなると。
その人は「それは,愚かでしかない」と話された。

この話への対応として,あとで別の人が

うつになったときのことを話された。
精神疾患とよばれるような状態になると「これが誰にとっての愚かさなのか?」が分からなくなると話された。身近な他者に対しても親切にできなくなり,自分はこんなにひどい人間かと思っていたが,それが病気のせいだと分かったとき「助かった」と思ったと。

また,生産性の話に戻る。
ある人が,自分は文章を書くのが好きだが,自分が時間をかけて書くような量の文章,chatGPTは一瞬で書く,そうすると書くことも愚かなのでは?と話した。

私はそれをきいて,面白いなと思ったが
chatGPTには,自分がなにを考えているか分からないまま書きはじめた文章はたぶん書けないし,もし性能が上がって書けたとしても,それは「自分が文章を書く」という行為をしていないという点で,なんの意味もないのではと考えた。

つまり,書くことは,書いて得られるプロダクトに価値があるのではなくて(価値が出る場合もあるけど),書く行為そのものに明らかな効能があるから,無駄にみえても無駄じゃないということ。

それは,「日日是好日」に出て来たようなお茶のお点前でも,別にどこで披露する予定もないウクレレの練習をすることでも,他愛もないことを話す主治医との面談でも,ふわふわした雰囲気で行う職場のジンギスカンパーティでも同じ。

幼い頃,私の人生はほとんど無駄で出来ていた。
なにも目指さず,弟たちがコタツで工作をしてるのを眺めたり,兄がすごい勢いでテレビゲームを攻略していくのを眺めたり,ボクシングごっこに協力したり,お母さんが食卓に出す前のえびの天ぷらをたべたり,なんの目的もなく歌を歌ったり本を読んだりした。
なるほど,そういえば,無駄が愛おしい。

もし小学校1年生に戻るとすれば,私はもっと効率的に勉強したり将来に備えたセルフケアをしたりするだろう。そう生きられたらよかったかもしれないけど,でも,人生は大きな意味で,キャンセルは効かない。

がんになって,元気に活動できる時間,生きる時間が思ったよりも短いかもしれないと気がついてから,自分はワガママになったと思う。「したくない」と思うことはしないし,「したい」と思うことはできる範囲でする。そんな中,「したいかしたくないか分からないけど気になる」という事象がいくつもあるということに気がつき,苦しい思いをすることがあり,それが今回の「愚行」について考える動機になっていたような気がする。

生産性があるかどうか,については,その行為で何が残るのか,つまり生産物が他の人に認められれば,価値があるという発想だと思う。

それを踏まえて,また別の人がこう言った。

それをやる,その人間に価値がある,
なんの役にも立たなくてもいい。
そう考えると,
愚行を含むすべての行為は,そんなに愚かじゃない。

ただ,対話をしていて分かってきたこととして,
「いい愚行」と「わるい愚行」の区別は存在する,ということ

自分にとって「わるい愚行」の最たるものは
幼い頃,弟を怖がらせようと,姉と共謀して,押し入れに入って
おばけのふりをしたこと。

あれは何の意味もなく,ただ何か自分の欲を満たすために
(それが何欲なのかもわからないが)
誤った,有害な,思慮に欠けることをしていたと
いまでも,まともに後悔することもできない,救いもない思い出だ。

自分がそのことを話したあと,また別の誰かが
どうしたら悪い愚行がやめられるか?と問いかけ

自分も,悪いことをいっぱいしたと思っている
と振り返り
自分の欲望のかたちをちゃんと分かっていないときに,
悪い愚行をしてしまうのかもしれない,と言った。

そして,つぎに話された方が
母親にみとめられたいがために,学生の頃,勉強も部活も頑張った
けど,母親は全くみとめてくれなかったし,ねぎらってもくれなかった
もっと遊びたかった,とあとで自分の本音が分かった
思い返して,あれほど頑張ったのは,愚行だったのだろうか
といまでも思う
と言った。

別の方が,これまでの一連の,
この場で回顧され告白された愚行について,

いまそれを愚かだと思えることは,
それを愚行だと思えるようになったということで,
そこからステップアップしているということなのではないか,
言った。

また別のひとが,
そのとき自分では分からない,しかし「悪い愚行」をやらないようにするにはどうすればいいのかについて
「自分で気持ち良くなってるとしたら愚行かもしれない」と言った。
(思い当たるところがある)
また,どのように「愚行を消化していく」ことが適切であるか考える必要があるという意見も得られた。

自分にとって,色々忙しいのに分厚い本を買って読んだり,哲学対話をしたりするのは,一見無駄のようであっても,自分の中の「愚行を消化していく」ためには,よい方法なのではないかとも思えるようになった。
(つまり,発達支援とか依存症臨床などでいう「不適応的な行動を適応的な代替行動に置き換えていくということ」である。
なーんだ,と思うかもしれないが,違う。そのような支援方法を知っており,実践したことがある自分であっても,これを最初から分かっていたということにはならない。自分から発した問いで,自力でここに行き着いた,知っている所に行き着いたとしても,この体験には「自分を愚行をする主体者」としてみとめることができたという大きな効能が不随していたように思う)。
とくにそれが自分ごとでない間は,何度,大切そうなフレーズを読んでもなぞっても,夢から覚めようとして何度でも覚め切らないときのように,決定的には分かっていないということがある。
けれども対話を経て,いま,私は愚行を自分ごととして捉えている。

そして
愚かの対義語は利口か?という話があった。
愚か,を疎かと考えれば,対義語は「充実」になるかもしれないと。
つまりおろかとは,「こんなものでは満たされないのに,それをやる」みたいな行為を形容する言葉なのかもしれないと。

また単純に
愚か,の対義語に「利口」が出て来ると思うけど,
例えば「利口」な人が愚かさに走ったとき
大規模な侵略とか人権侵害につながるのではという話になった。
人類の愚かさは「利口」さでは抑えられないものなのかもしれない,と言う。

結論として,「愚行」について,2時間では到底話しきれるものではなく
ただ,ここにはゴロゴロ地雷のようなものが埋まっているので,40回くらいかけてセッションするような課題なのかもしれないと,ざっくり見積もることはできた。

なんとか,時空のふたが閉じるまえに,今回の哲学対話の記録もできた。
また次の冒険まですこし体力を蓄えたいと思う。

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