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才能のありか

こういった話は人によって主義主張があるので、
基本的に話題にしないが、一度議論のテーブルに乗せてもいいと思う。

世の中には天才と言われる人がいる。
ギフテッドとも呼ばれ、並外れた能力や鬼才を発揮している人の事を指す。

生まれついてのものもあれば、後天的に身についたものもある中で、
さてどこまでを天才と呼べる才で区切るかと言われると定義としては曖昧なのではないだろうか。

実際、区切りとしては3つあるそうで、
それぞれ「凡才・秀才・天才」だそうです。
でももっと突き詰めたら天才の中のずば抜けて秀でた能力もいれば、
天才の中でも、比べたら見劣りする程度の人もいるかもしれない。
なので今回はすべての人に等しく備わっていて、明日からでも実践できる点を話したい。


結論は「感受性」

才能は感受性だと思う。
「感受性(かんじゅせい)」=「外界からの印象や変化・刺激を受け取る感度や感じ取りやすい性質」
何故これだと思うかというと、生きていれば必ず外界から刺激を受けているからだ。

どれだけ周囲からの情報を得られるかが重要

近年話題となるAIもまずは学習から始まる。
それは判断する ものさしが必要だからで、ルールのない環境では判断できないからだと言える。

クリエイター業界では流行に敏感なアンテナを立てているか、
情報収集はどうやっているか
という事もよく聞かれる。
それだけ外界から受ける刺激というものは自身の変化に大きくかかわる。

画家の中でも有名なピカソ。
彼の作品の中の芸術大系にキュビズムというものがあるが、
一説にはセザンヌの絵から影響を受けていると言われている。

セザンヌの絵と言えば、芸術界隈では「へた」や「立体描写が弱い」、
「描き分けが出来ていない」と酷評が多く目立つ画家であり
【りんごとオレンジ】という作品は
布と果物の描写の仕方に差異が見られなかったり、
パースで考えると被写体の位置に違和感があったりと、
確かにそれまでの西洋画を見ると「へた」と捉えられても
仕方がないと言えるかもしれない。

バスで描いてもちぐはぐさが明確に見える構図。
ただ絵としては一つ一つの要素に着目すると独自の味わいが。

常識というバイアス

キュビズムと言えば多角的視点から被写体をとらえて一枚の画面に描きこむ手法の事で、その結果、幾何学的な描写で表されることが多い。

ピカソは当時「へた」だと揶揄されていたセザンヌの絵を目の当たりにして、【多角的な視点で捉えているから、ちぐはぐに見えているだけ】と汲み取っていたとしたらどうだろう。

今までリアリティを求める芸術が一般的で、被写体のありのままを描くことが多かったものを、被写体を、右から見た姿と、左から見た姿を合わせても同じ一つの被写体であり、被写体が持つ情報のリアリティを描くという目的は変わらないと言えるのではないか。

寧ろその見えている違いこそがその者のポテンシャルの幅だと捉えたら、
ワンシーンを切り取るよりもその被写体の情報というのは多く含まれると考えられる。

この多角的に見たことによる表現の幅の広がりこそが、キュビズムという芸術大系の凄さの一つだと言える。

話は戻るが、つまりピカソは外界要因の1を、2にも3にも代えることが出来たのではないかという事。
これすなわち、「感受性」であり、いかに世の中の常識に惑わされず、自分の糧にしていくのかが重要である。

人への印象もそう。見てわかる情報も大事だが、
重要なのは相手を理解しようとする姿勢を持つこと

常識は時に人を盲目にさせる。
そして、自身の頭で考えているようでバイアスに飲み込まれ判断が鈍っていると気が付けたなら、その時点で新しい気づきを得ているに違いない。

その気づきを繰り返していくことで、
新しい才能の発見につながると感じている。


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