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26歳女子、円形脱毛症になる

 2019年1月某日。2週間ぶりに行きつけのバーに行った。客は私(26)1人だった。「ちょうど、●さんのことを思い出していましたよ」。マスター(36)は笑顔でいつも私が頼むお酒をつくってくれた。私の先輩の話になった。どうやら最近「ローマの休日」を観たらしいが、オードリー・ヘップバーンと恋に落ちるのは新聞記者という設定のようだ。「観たことはないですけど、王女様との恋のお話ですよね」「そうそう。それで、彼となんとなくイメージが合っていて」。24時間だけの恋。「気まぐれなところがいいんですよね」。わがままで気まぐれな猫のような存在を愛せるマスターの立脚点が、私にはまだわからない。もちろん、猫は愛せるけど。

 その日初めて、「ジャックローズ」というカクテルを注文した。「タイタニックですね、ジャックとローズって」。「え、そうなんですか。知らなかったなあ」。りんごの蒸留酒・カルヴァドスを使うので、「アップルジャック」という名前もあるみたいだけど、レモンジュースやライムジュースかなど、店にあったカクテル本だけでも微妙にレシピが違っていた。ネットで調べる限り、映画との関係性は見当たらなかった。「すごいな、鳥肌が立った」。タイタニックは観ていなかったようだったマスターは、しきりに感心していた。

 その後は最近おすすめの飲食店の話をお互いひとしきりして、午後11時半にチェックをした。「そろそろ○さんが来るかな、と思っていたところだったので、良かったです」。私はこの店の客としてはまずまずのようだ。「ありがとうございます。いろいろと話せて元気が出ました。実は、最近」多少言いよどんだが、「あまり体調が良くなくて。でも、元気出ました」。彼は心配そうな表情で、私を出口まで送ってくれた。

 体調が良くない。毎日仕事は休まずに行っているが、確かにそうなのだ。その週の初め、仕事中に何気なく後頭部を触っていると、「ん?この辺、なんか髪の毛がなくて、つるつるしてる気がする」。その日の夜、自宅でスマホを後頭部に向けて格闘すること15分少々。写っていたのは、まごう事なき10円ハゲだった。

 ストレスの象徴である。円形脱毛症とも言う。それを見つけたときとうまく写真に収められたときの私は「本当に、ピンポイントでハゲてる!」と半ば好奇も入り交じっていた。後頭部の髪の毛をかき分けないとわからないので、日常生活に支障はない。というか、女性でロングヘアーでよかった。男性の場合、この位置ならば間違いなくばれてしまうだろう。

 とはいえ、自分もさすがに女性としてなのか、あるいは人間としてなのか、髪が部分的に抜けたことに対してはショックを受けた。なんだかすごく悲しい。悲しいのはなぜだろう。痛くも苦しくもないのだが、自分の身体のサイクルが異常を察知し、何らかの形でそれを外に表したわけだ。身体に無理をさせたということになる。

 どうやら、「(髪が抜けた)3カ月前に受けたストレスが原因」というのが通説のようだ。正直、仕事上でストレスと言われて思い当たるのはいくつもある。ただ、ここ半年は、そこまで決定的な場面はなかったはずなのだ。…いや、あった。今までとは違う形での戦いが。

 さかのぼることおよそ半年。私はある企画案を練っている最中だった。ある社会問題について取り扱っており、私のなかではどうしても仕上げなければならない企画だった。思い入れもあった。ただ問題は一点。企画を構成する材料集め、イコール取材がうまくいっていない。私の案は、いわば絵に描いた餅だった。担当上司のゴーサインは出なかった。

 「やりたいなら、自分のテーマとしていつか成就させたら」。上司に言われた私は「突き放された」と感じた。「相談してもゴールにたどり着ける具体的なアドバイスをくれなかったあんたらが悪い。早くこんなところ転勤になるか辞めてやる」と腐っていた。余談だが、私はよくない部下の典型みたいな人間なので、しょっちゅう上司と衝突する。やがて担当替えを経た後、本当にちまちまと、亀のような速度で企画に向けて取材を続けていた。

 いやいや、このままじゃお蔵入りになってしまう。年内にどうしても完成させなければ。「えぇー、でもまだ材料は集まっていないよ」。「こんな決めつけみたいな、偽善的な内容で、読者は納得しないよ」。「もっと価値があるはずなんだ、社会に出てこれないような人のところに降りていって、日常を切り取るような何かがないと」。「降りていくとはなんだよ。お前こそが、偏見の塊の偽善者だよ」。私のなかでさまざまな声がして、やがてそれは一つの形に収斂した。

 「すべて実力がない、やる気がなく怠惰な、お前が悪い」

(つづく)

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 地方勤務の26歳女子。1人の風変わりな先輩と出会い、生まれて初めて「この人のために用意した言葉で私が話したい」と思ったところから、この物語は始まりました。恋愛も仕事も、次の一歩を踏み出せるのか。生きるため、表現の手段として、果たして今の仕事を続けていけるのか。アラサーに突入し、悩める同世代に届けるため、99%、ほんとうの言葉で書いていきます。1%はフィクションです。不定期更新。(しいさ)
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はじめて太字機能を使えました。ライトノベルみたいになりました。

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