日本文化におけるナンセンスみ

いつの頃からか激推しされている「恵方巻き」。このナンセンス極まりないものがさも伝統文化のように扱われる美しい国日本。

だがさすがにこの「恵方巻き」のナンセンスさに、多くの日本人が気づき始めている。大量廃棄されている現実を見れば、誰が推しているのか知らないが、思惑通りに事が運んでいないことは明らかだ。

もう来年はこんなクソみたいな文化は滅していればいいと心の底から思う。

だが、よく考えて欲しい。

日本の伝統文化には、まだまだナンセンスなものが多々あるということを。

例えば「恵方巻き」と期を同じくして行われる行事に「豆まき」がある。
そう、節分だ。

鬼のコスプレをした人間に向かって「鬼は外 福は内」と奇声を発しながら豆を投げつけるというこの行事は、災いを避け、福を願う行事とされているが、よくよく考えると、自分に都合の悪いことは避け、自分に都合の良いことばかりを望むという、人間の自分勝手さ、浅ましさがよく表れている。

さらに「恵方巻き」には疑問を持つ知性を持つ日本人であっても、「豆をまく」という行為に疑問を持つ人は少ないのではないだろうか。この点も「恵方巻き」同様、よく吟味する必要があるのではないか。

ではなぜ「豆をまく」のか。

豆で鬼が倒せるとでも言うのだろうか?

もちろん、炒った大豆を投げつけられれば痛いことは間違いない。
だが、豆をぶつけられるごときでやられるような弱い鬼など、恐れる必要は端から無いはずだ。豆すらぶつける必要さえない。

にもかかわらず節分には「豆をまく」ということが当たり前のように行われている。
これは一体なんだというのだろうか。

一説によれば、豆がまかれるようになったのは、「豆」は「魔滅(まめ)」に通じるからだということらしい。

つまり豆は、魔を滅してくれる、邪気を払ってくれる、というパワーがあるらしい。

ほほう、なるほどね。わかりみしかない。

などと納得してはいけない。
よく考えるのだ。


豆には魔を滅するパワーがある。
この理論のエビデンスはなんだ?

答えはすでに書いてある。

「豆」は「魔滅」に通じる。

これが豆は魔を滅するパワーがあるとされる、唯一のエビデンスだ。

ちょっと待て。
こんな言葉遊び一つで、節分の「豆まき」という一大イベントが行われているとでもいうのか。

冷静に考えて欲しい。

実際に豆で鬼を倒したという前例も無しに、さも豆で鬼を倒せるかのようなことを流布するのは、実に危険なことなのだ。

なぜならば、もし実際に鬼に遭遇した時、豆で倒せるという情報に基づいて豆を投げ、もし鬼にそれが聞かない場合はどうするのだ?余計に怒りを買い、危害を加えられる危険性をいたずらに高めるだけなのではないだろうか?

なに?鬼など存在しない?それを言い出すのであれば、節分の「豆まき」そのものを否定することにもなる。つまりは「豆まき」もまた必要のないナンセンスなものとなってしまう。

それでいいなら、そうしよう。

しかし、それはお互い望むところではないだろうから、もう少し一緒に考えていただきたい。

仮に、鬼がいなくても、だ。鬼が豆で倒せるという情報から推察し、鬼より弱いものでも、豆で倒せるという考えを持つ人間が出てくる可能性も否定しきれないのではないだろうか

例えば、そう、熊。

熊は恐ろしいが、鬼よりは恐らく弱いだろう。

そうであるならば、鬼を倒せる武器が、熊に通用しないはずがない。そんな風に考えることも、不自然ではない。

だが実際はそうではないことは明白だ。熊に豆を投げつけたところで、熊を倒せようはずもない。

だが、鬼を豆で倒せるという情報があるだけに、誤った推論をしてしまう人間もいるかもしれない。これは実に危険なことである。

おわかりいただけるだろうか。

こんなエビデンスの乏しい、定かではない情報に基づいて日本の年中行事の一つが行われていることは、実にナンセンスであり、リスクマネジメントとしても、危うみしかないことを。

また「豆」に関して言えば、他にもエビデンスの乏しい情報がある。

それは、「豆」を食べると、「マメ」になるとされる言い伝えだ。

この場合の「マメ」とは、よく働くことであったり、健康であったりすることを意味する。

ではそのエビデンスはなんなのか。

それはよく働くことや健康であることを意味する「マメ」という言葉と、「豆」の音が同じであるということだ。

音が同じ。
エビデンスは、ただそれだけ。

にも関わらず、正月の文化の一つであるおせち料理には、「黒豆」が使われることが一般的だ。

よく働けますように、健康で一年過ごせますようにという願いを込めて食べられているこの「黒豆」だが、実はその根拠は「マメ」と「豆」の音が同じという、その一点のみ。

実際に、「豆」を食べたところで、怠け者が働き者に変わることなどあり得ない。

また「豆」が健康に良いだろうと信じて、「豆」ばっかり食っていては他の栄養が足りなくなるだろう。

これもまた、エビデンスの薄い情報に載せられて健康を害しかねないという危険を孕んでいる。

こんなことは残念ながら「豆」だけに限った話ではない。

昆布がめでたい食べ物とされるのは、昆布を意味する「こぶ」と「よろこぶ」がかかっているからだとか、そもそも「めでたい」から「鯛」が喜ばれるとか、逆に「四」は「死」と音が同じだから忌み嫌われるとか、とにかく音がかかってさえすれば、さもそうであるかのように語られるのは一体何なのだろうか。

は?言霊?

何を言っているのだ。

いや、言葉には確かに力がある。
だがそれは、相手にこちらの意思を伝えたり、他者と認識の共有を図るための力であり、言葉そのものは単なる記号でしか無い。

例えば、日本語で「豆」は「まめ」と読み、確かに「魔滅」と音を同じくするかもしれない。

だが、英語にすればどうだ。「豆」は「bean」だ。「bean」には「魔滅」との共通点など皆無である。

指し示すものは同じであっても、言葉などいくらでも変わるものである。そんな言葉に力があると信じるなど、オカルトもいいとこだ。

日本の文化には、この「音が同じだから」というよくわからないエビデンスが散見されるが、こんなもの言霊でも何でもない。程度の低いダジャレである。

ダジャレを根拠にして文化を形成しているのが我が国の誇る文化だったのだ。

時代は21世紀。
AIが発達し、車だって自動運転しようとする時代。

そんな時代に言葉遊びやダジャレを根拠に伝統や文化の素晴らしさを誇る日本。

果たしてこの国は、大丈夫なのか。

「恵方巻き」だけではない。もうそろそろ、日本の文化そのものの抱えるナンセンスさに気づく人が増えてきても良いのではないだろうか。

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