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「書思」を広める活動をしていきます。

 「書思(しょし)」という言葉があります。けれども、それを聞いたことがある人はいないと思います。なぜなら、私が生み出した言葉だからです。海外の人は当然、日本中どこを探しても、日頃からこの言葉を使っている人はこの私ただ一人だけです。

 私は、この言葉を日本中に、そしてあわよくば世界中に広めたいと考えています。そう考える理由は、いくつかありますが、未だそれらを簡潔に言い表せる段階にありません。ですので一先ずは、当記事を含む今後の記事を通じて、順次ご紹介していく予定であります。

「書思」が意味するもの

 一言で言えば、「思考を書く」という行為です。ここでいう「思考」が意味しているのは「人間の知的作用」という広義に当たります。つまり、分かりやすくまとめて言えば、「思ったり、考えたりしていることを書く」という行為を指します。

「書思」の成り立ち

嚆矢は日記

 私は10代前半(中学生の頃)から毎日、B5サイズのノートに日記を書いています。そして書き始めた当初から一貫して守り続けている、たった一つの、そしてとてもシンプルな、ルールがあります。

他人には読ませない。

 私がこのルールを設けた理由も、シンプルです。

人の目を気にすると書けなくなるから。

 noteで記事を公開している皆さん、「書こうと思って画面と向き合っているけど、中々手が進まないな…」なんて経験をしたことはありませんか。そして恐らくですが、それは「人目を気にしているから」ではありませんか。「こう書いたらどう思われるかな」や「どう書いたら伝わりやすいかな」をたくさん考えて、手が重たくなっているのではないですか。このことに関して、私が言いたいのは「それを書く目的を強く意識する必要がある」ということです。決して、「人目を気にして書くな」と言うことでは無いのです。書き手が「読者にこう思われたいから、こう書こう」と考えること自体は、悪いことだとは思っていないのです。むしろ、相手の立場を考えるという意味で、必要な視点と言えるでしょう。

日記の枠を超えた

 私の「他人に読ませないと決められた日記」は、徐々に進化してきました。字の大きさや書き方、書く分量、内容、時には言語すら、日により様々です。

 一般に「日記」はその日の出来事や感想を書くものですが、同じ書くと言う行為ではあれど「書思」は日記とは全く異なる様相になります。心が落ち着いている日は、綺麗に揃った字と細かい描写。逆であれば、荒い字と感情的な言葉。文章と絵の中間、と言い表せるかもしれません。私の言う「書思」は、一日一日を、文字という絵を用いて最大限に表現するものなのです。

そして名付けた

 「これはもはや日記と呼べない」と感じたとき、同時に、新しい概念/言葉(つまり抽象化)が必要であるとも感じました。そして「書思」と名付けました。その理由を簡単に記します。

 私の、書思以外の趣味の一つに「読書」があります。皆さんご存知の通り「書物を読む」行為を意味します。書物というのは「書かれた物」です。私はそこからヒントを得て、「思考を書く」という行為を「書思」と書こうと決めました。思考というのは、先ほども書いた通り「知的作用(思いや考え)」です。

終わりに 

 こうして、「書思」という言葉が生まれました。私は、この「思考を書く」行為に市民権を与えたいと考えています。それこそ、いま皆さんが「読書」という言葉を使われるように、やがては多くの人が「書思」という言葉を発するようになってほしいのです。その理由について書くのは、また次の機会に。今回は一先ず、ここまでにします。

今後書くこと

 今後書いて行く予定なのは、「なぜ書思を広めたいのか」「書思によって得られる効果は何か」「書思はいかに世界(人々)を変えるのか」などです。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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