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【さきよみ】近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』より「#01 かくして私は収奪と救出に失敗する/『ピクミン4』、やってみた」全文掲載!

ゲームはフェミニズム的にもホットなメディアになっている──。フェミニストで歴史研究者、パンセクシュアルで車いすユーザーの近藤銀河さんが、フェミニズムとクィアの実践の場となっているビデオゲームの世界の面白さを伝えるエッセイ『フェミニスト、ゲームやってる』が5月24日に発売されます。「はじめに」公開につづいて、本記事では、同書から「#01 かくして私は収奪と救出に失敗する」全文を掲載します。

かくして私は収奪と救出に失敗する
『ピクミン4』、やってみた

 ピクミンというあの植物みたいな生き物のことを知っている人は多くても、「ピクミン」というゲームをやったことがある、という人は意外に少ないのかもしれない。
 実際のところ、「ピクミン」シリーズはピクミンの可愛さに惹かれてプレイするには、恐ろしいゲームだと私は思う。そこでは労働という行為がもたらす快楽と破壊が描かれている。
 2023年に発売された「ピクミン」シリーズの最新作『ピクミン4』をプレイした私の経験を語りながら、本作で描かれる収奪のこと、そしてゲームをクリアするとはどういうことかを考えてみる。

「ピクミン」シリーズは「PNF-404」という惑星を訪れたりそこで遭難した人々が、星に住んでいる植物にして生物である不思議な存在・ピクミンを使役して、星にある「オタカラ」を集め、土地を切り拓いていくゲームだ。
 CMとかによく出てくるピクミンは、実は主人公たちに使われ、たくさん死んだりしてしまう。
 そう、「ピクミン」が描くのは、人が見知らぬ土地を身勝手に使い生物を資源として消費していく姿なのだ。
 けれど、プレイしているうちにピクミンを指揮してオタカラを運ぶことが楽しくなってきてしまう。
 そしていつの間にか初めの頃に感じていたはずの抵抗感が消えてしまう。
そこが一番恐ろしかった。

葉っぱや花が頭に生えた小さなピクミンたち。宇宙服を着た主人公の指示で壁を壊している

 罪悪感を減らす設定

「ピクミン」シリーズで主人公たちが星を訪れてピクミンを使役するようになる経緯は色々だ。初代『ピクミン』では、運送会社の社員の主人公が星に墜落して脱出を試みるというものだし、『ピクミン2』では倒産しかけた会社を立て直すために、星に散在するオタカラを集めてお金を稼ぐという物語が背景にあった。『ピクミン2』はその意味で典型的な資本主義による資源の収奪を描いている作品だ。
 新作である『ピクミン4』の主人公は、遭難者を救助するレスキュー隊という設定になっている。どの作品でも、主人公たちにはどうしようもない事情で、惑星の探索を行うことになるという点は共通している(『ピクミン3』は深刻な食糧難のため惑星を目指す)。これらの物語はゲームの根幹である収奪と使役をプレイヤーが正当化する言い訳のように機能している。主人公たちを危機に陥れるどうしようもない事情を作り出す原因でもある社会的な部分には、直接アクセスすることはない。
 ピクミンたちについても、ピクミンたちが単に使われるだけでなく、実は外から来た人々を逃さないようにコントロールしていることが示唆される。ピクミンたちが人と共にあることで強いメリットを得ていることや、ピクミンが人間にとっても脅威であることを示すバックストーリーだけど、これも生物との対等な関係を描くというよりも、ピクミンを使役することの罪悪感を減らすためのものであるようにも思える。
 一方で「ピクミン」シリーズの物語の魅力は割と身勝手な理由で危機におちいる人たちがよく出てきて、その人たちが強く咎(とが)められないところにあると思う。『ピクミン2』で会社が倒産しかけた理由は、新入社員が会社の資産である高級食材を全部食べたから、という我欲によるものだし、『ピクミン4』ではびっくりするような理由で遭難する人たちがたくさん出てくる。失敗しても人々はあっけらかんとしているのだ。
「ピクミン」シリーズの登場人物たちのこういう雑な失敗は、「ピクミン」シリーズの背景にある失敗を許さない資本主義社会を皮肉っているようでもある。

『ピクミン4』にハマっていく

 ただ『ピクミン4』をプレイしていると、次第にそんなことを忘れていってしまった。
 それくらい『ピクミン4』のゲームサイクルはすごくよくできている。
『ピクミン4』は二重遭難を描いていて、遭難したキャプテン・オリマーという人物を助けるために出発したのに、これまた遭難してしまったレスキュー隊を助けるために、新人の主人公がみんなを助けに行く、というストーリーだ。ちなみに主人公が救助する人々はオリマーやレスキュー隊の人たちだけでなく、オリマーの発した救難信号に引き寄せられてきて、やっぱり遭難してしまった多種多様な人たちもふくまれる。
 人々を助けるために主人公は、ピクミンを使って、レスキュー隊のロケットのエネルギーになる力「キラキラエネルギー」をもつオタカラを集めて、ロケットに備えられた救難信号を受け取るレーダーの力を高めつつ、人々を救助していく流れになっている。
 このオタカラ集めに、私はだんだんハマってしまった。

楽しさの仕組み

 この作品にはゲーム内に1日という時間の単位が存在し、朝から夕方までのその限られた時間の中でフィールドを探索してオタカラを集めることになる。
 別にゲーム内で何日過ごしてもペナルティはないから、ゆっくりやってもいいのだけど制限があるとつい効率的にプレイすることに夢中になって、ピクミンに仕事を割り振ってできる限り1日で多くのことをするやり方をずっと考えてしまう。ピクミングループAには橋を建設させて、ピクミングループBにはオタカラを運搬させて、その間に自分は野生の生物と戦って……と細々とした計画を練るのがとても楽しいのだ。
 さらにフィールドのあちこちに点在するオタカラを集めたりしていくことで、未知の世界だったフィールドにも慣れ親しんでいくことができて、これも楽しかった。
『ピクミン4』で舞台になる「PNF-404」は、我々が住む現代の地球によく似ていて、文明の跡が真新しく残っているけど、それを作ったはずの人類がいない惑星だ。
 ピクミンたちも主人公も、文明を作ったはずの人類よりはすごく小さくて、『ピクミン4』ではこの小さな存在から見る人類の遺跡が魅力的に表現されている。だから、フィールドを探検して少しずつどこに何があるのかを把握していくのは楽しい作業になる。またマップにはオタカラなどの収集率も表示されていて、それに煽られてついどんどんオタカラを集めてしまう。
 このように『ピクミン4』のゲームサイクルはとてもよくできている。とても自然にオタカラの収集と、ピクミンを使った作業の効率化をうながし、それがとても楽しい。気づくと私はどんどんオタカラをねちっこく集めるようになっていた。

マップのお宝を集めてレーダーを強化して新しいマップを見つけて……
という開拓事業についハマってしまう

我に返る

 でも、ふとした拍子に「あれ?」となった。あるときレスキューよりオタカラを集めたりマップの収集率を上げることに夢中になってる自分にハッとしたのだ。
 本来、『ピクミン4』はレスキューに必要なエネルギーをオタカラから集めるという話だった。でも私はピクミンを指揮して、1日の中でできる限り効率よくオタカラを集めていくことに熱中してしまい、必要以上のエネルギーを集めているし、何よりレスキューのことを忘れていた。
 私はメインのレスキュー目標だったはずのオリマーの位置がわかっても、オリマーのことなんか無視して、マップの穴埋めに勤しんでいる。
 おかしい……。
 主人公も私も、こんなことのために来たのではなかった。会社を立て直すことを目的としている『ピクミン2』とは違い、『ピクミン4』をプレイする私には、人命救助というもっと崇高な目的があったのに……。私はいつのまにかこの惑星の土地を拓いて、資源を収奪するのにすっかりハマり、あらゆる物語上の目標を忘れてしまっていた。
 なんだかそのことにゾッとした。

プレイをやめた


 それから私はプレイがだんだんできなくなっていってしまった。
 ゲーム内の物語が示す目的と、ゲーム内で実際にプレイヤーが取る行動はどうしてもズレる。ゲームの自由度が高ければ高いほど、そういうことは往々にして起きる。
 たとえば大作ゲームの『ラスト・オブ・アス パート2』の物語は暴力を正面から描こうとするけど、流れ作業のように発生する『ピクミン4』の戦闘は、個人に向かう暴力の痛みをめぐる物語と相反するとマップのお宝を集めてレーダーを強化して新しいマップを見つけて……という開拓事業についハマってしまうころがある。
『ピクミン4』の物語と目的はプレイヤーの罪悪感を減らす方向に導こうとするけれど、少なくとも私には逆効果だった。罪悪感を減らそうとすることで、向き合わないでいた罪悪感は、結果的にどこにもいかないまま体の中に積もっていき、忘れていた矛盾は一度気づくと忘れられなくなってしまった。
 私は暴力の責任と、暴力の結果によって起きる痛みを、プレイヤー本人が負うようなゲームの方が好きだ。少なくとも、プレイヤーが行使する暴力は物語の中でも暴力として扱われてほしいし、そこに痛みがあることを曖昧に隠そうとしないでほしい。
『ピクミン4』ではピクミンが死ぬことの痛みは描かれるが、私が体験した収奪をめぐる罪悪は、それほど明示されないまま話が進んでいってしまっていた。
 そんなわけで私はなるべく物語とゲームプレイを一致させようとした。回収する必要のないオタカラは無視してレスキューに邁進したり、できる限りピクミンを使わない縛りでやってみたりした。でもそうすると、回収してないオタカラがあることを通知されたりして、消化不良感が出てしまう。
 結局、なんとか当初の目的であるオリマーの救出を終えたところで、私はそれ以上続けられなくなりプレイをやめてしまった。

ゲームは気軽に失敗できる

 ただその挫折を、私はネガティブなものだとは考えていない。むしろプレイをやめたというより、私はそのときに『ピクミン4』をクリアしたのだと感じている。
 現代のゲームは、ボリュームが増大しやり込み要素や分岐も増え、メインストーリーとは直接的に関係のないサブストーリーも多い。本編でさえ数時間では終えられないし、サブストーリーも追おうとすれば、何十時間かそれ以上もかかってしまう。
 だから、ゲームの〝終点〞がどこにあるのかは曖昧になりつつある。一度クリアにたどり着いてスタッフロールが流れたあとにも、新しい展開が あったりするゲームも決して少なくない。
 逆に言えば、ゲームを遊び終える地点はある意味でユーザーにゆだねられているのかもしれない。その地点を選ぶ行為こそが、プレイヤーがゲームというシステムに対峙するということなのかもしれない。
 その意味で言えば、私はプレイをやめたのではなく、『ピクミン4』を遊び終えたのだ。
 このとき、『ピクミン4』というゲームは遊び終えた地点から逆算され、レスキューという目的を忘れて、収奪と開拓にハマりこんでいく外からやってきた人間の愚かさを体感するゲームとして再定義される。
 かくして私のプレイした『ピクミン4』では惑星「PNF-404」に遭難したオリマー以外の人々はみな惑星に捕らえられ、帰ることができなくなった。遭難者たちはどうなったんだろうか。ピクミンと同化して、永遠に惑星でピクミンと真に共生することになったのかも。それはそれで恐ろしいし申し訳ない話だけど、私の『ピクミン4』はそうやって終わった。
 ゲームの良さの一つは、そうやってゲームの枠組みや目的を読み替えてプレイすることができることだと思う。もちろん、それはどんな解釈も可能だとか、誰であっても読み替えればどんなゲームも楽しめる、という話ではない。プレイヤーがゲームの大きな枠組みに抵抗してプレイすることのできる可能性が、ゲームには分かりやすい形で存在するということだ。
 その可能性は失敗ともつながっている。失敗することでプレイヤーはゲームに小さく対抗できる。この文章の前の方で私は「ピクミン」シリーズにおいて、失敗は軽く、あっけらかんと描かれていると書いた。社会が失敗を罰するのは、失敗とは社会の規範が破られる瞬間だからでもある。その意味で失敗とはとても政治的な行為だ。ただ、だからこそ現実の社会で失敗することはリスキーでなかなか簡単には行えない。
 ゲームの魅力はそんな失敗を気軽に試せるところにもあるのだと私は思う。『ピクミン4』はそのことを教えてくれた。 
 そうして私は無事にレスキューに失敗したのだ。

POINT 
これからプレイする人へ

・『ピクミン4』はNintendo Switch でプレイできる専用ゲーム。ダウンロード版はストアによっては割り引き販売されているところもある。
・キャラクターメイキングはいくつかのパーツを組み合わせる方式で性別を選ぶことはできない。これはここ数年でキャラクターメイキングの主流になりつつある方式。
・かわいい見た目とは裏腹にけっこうシビアなゲーム。特にピクミンを捕食する原生生物との戦いではピクミンがたくさん死んじゃうこともよくある。
・原生生物と戦うときはとにかく回り込むこと。また途中で生物図鑑が解放されると模擬戦ができるのでここで慣れるのも手。
・ピクミンが死にすぎちゃって悲しいときは巻き戻してやり直すこともできる。
・救助犬オッチンは育てると最強!!! 困ったら頼ろう。
・パズル的な要素もけっこう多い。難しいときは攻略動画を見るのもアリ!

装丁は佐藤亜沙美(サトウサンカイ)、装画は加川日向子

近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)は、5月24日発売予定! 本の情報はこちらから↓

Amazonでの予約、始まってます。


『フェミニスト、ゲームやってる』

【DATA】
四六判並製 320頁
定価:1,980円(本体1,800円)
978-4-7949-7420-4 C0095〔2024年5月24日発売予定〕

ゲームをつくり、プレイし、プレイし損なう。そのすべてがフェミニズムの実践たりうると教えてくれる。
──三木那由他(哲学者)

「ゲームはフェミニズム的にもホットなメディアになっている」。フェミニストで歴史研究者、パンセクシュアルで車いすユーザーの書き手が、フェミニズムとクィアの実践の場となっているビデオゲームの世界の面白さを伝える、画期的なエッセイ!

「トラウマを語ったり、現実の世界の問題を考えたり、そうした行為を少しだけ遠く、少しだけコントロールできる状態でやっていく。ゲームのそんな機能に私は助けられてきた。そこでは自分にとってつらい問題を、距離をとりつつ思考することができる。この本も、誰かにとってそんな役割を持つことができたら、そしてそんなゲームを、フェミニズムを広めることができたら、そんなふうに考えながら今、書いている」(「おわりに」より)

【目次】

はじめに なぜフェミニスト、ゲームやってる 

Ⅰ あの有名なゲーム

#01 かくして私は収奪と救出に失敗する
──「ピクミン4」、やってみた
#02 多様なキャラクターのシューターゲーム
──「スプラトゥーン3」「オーバーウォッチ」「エーペックスレジェンズ」、やってみた
#03選べない環境と自分自身のはざまで
──「ラスト・オブ・アス パート2」、やってみた

【コラム】ボーイズクラブとしてのゲームコミュニティ

Ⅱ  クィアが活躍するゲーム

#04 大作ゲームの女性表象とクィア表象の歪みと良さを体現する
──「アサシン クリード オデッセイ」、やってみた
#05 ゲームの難しさがマイクロアグレッションを表現する?
──「セフォニー Sephonie」、やってみた
#06 クィアがオプションじゃない恋愛ゲーム!
──「ボーイフレンド・ダンジョン Boyfriend Dungeon」、やってみた

【コラム】語られるレイシズム・語られないセクシズム

Ⅲ マイノリティの日常を感じるゲーム

#07 トランスジェンダーの日常と過去の解釈
──「テル・ミー・ホワイ Tell Me Why」、やってみた
#08 バイセクシュアルの表象とモノの方を向くお引っ越しゲーム
──「アンパッキング」、やってみた
#09 トランスジェンダー男性同士の交流を描く
──「ペイトンの術後訪問記 Peyton’s Post-Op Visits」、やってみた
#10 卒業間近のノンバイナリーの学生たちの日常を活写する
──「ノーロンガーホーム No Longer Home」、やってみた

【コラム】成果を礼賛するゲームと差別の乗り越え

Ⅳ 80-90年代を描くゲーム

#11 90年代のZineとレズビアンの反抗物語
──「ゴーンホーム Gone Home」、やってみた
#12 クィアなミドルエイジ女性の過去・現在・未来を描く
──「レイク Lake」、やってみた
#13 トランスジェンダー女性記録を消しながら記憶をたどる
──「イフ・ファウンド… If Found…」、やってみた

【コラム】ゲームと障がいはじめに なぜフェミニスト、ゲームやってる

Ⅴ 歴史を想像するゲーム

#14 台湾の戦後と恐怖を再訪するホラーゲーム
──「返校-Detention-」、やってみた
#15 哀悼と歴史の可能性を考える
──「シベリア:ザ・ワールド・ビフォー Syberia: The World Before」、やってみた
#16 男らしさに呪われる運動家たちの殺人事件
──「ディスコ エリジウム Disco Elysium」、やってみた
#17 社会運動の理想と抵抗のあいだに…
──「スパイダーマン:マイルズ・モラレス」、やってみた

【コラム】オープンワールドと都市の遊歩者

Ⅵ ファンタジー世界を旅するゲーム

#18 ヘイターと戦うレズビアンでトランスなロードムービー
──「ゲット・イン・ザ・カー、ルーザー Get In The Car, Loser! 」、やってみた
#19 過去と未来を作り変えられる魔女になってどうする?
──「コズミックホイール・ホイール・シスターフッド The Cosmic Wheel Sisterhood」、やってみた
#20 かつて私は、あのゲームの余白にフェミニズムやクィアを投影していた
──「MOTHER2」「ドラゴンクエストⅥ」「ファイナルファンタジーⅥ」、やってみた

【コラム】ゲームを作るフェミニストとクィアな人たち

おわりに フェミニストたち、ゲームやっていく

参考文献
さらにゲームを知るための文献リスト
フェミニストのためのゲームリスト