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はじめに|堤藤成『ハッとする言葉の紡ぎ方 コピーライターが教える31の理論』

12月26日発売となりました堤藤成さんの新刊『ハッとする言葉の紡ぎ方 コピーライターが教える31の理論』より、「はじめに」を公開致します。偶然書店で見かけた堤さんの第一作に「ハッとした」ことで始まった企画。日本とオランダを拠点にクリエイティブディレクターとして活躍する堤さんの発想術、言語化の過程、夢を叶える力が記されており、エッセイとしてもビジネス書としてもお楽しみ頂ける内容になっています。

はじめに

なぜ僕らは、「言葉を紡ぐこと」に苦手意識を感じるのだろう

散歩のはじまりは突然に

「コピーライター目線で『言葉を紡ぐ楽しさ』が伝わるエッセイを書いてほしいです」

 それが当初、この本の編集者からいただいたお題でした。コピーライター冥利に尽きる、とても嬉しいお声がけ。とはいえ、自分にとって「エッセイ」とは、大御所の作家や著名なタレントが書くものというイメージがありました。そのため一介のコピーライターの自分が「言葉を紡ぐ楽しさを語るエッセイなんて書いていいのだろうか」という疑問とプレッシャーが生まれてきました。ですが、断るにはもったいない。

 僕は、しばらく考えこんでしまいました。返事をする前に、藁にもすがる想いで、辞書を引きました。とにかく「エッセイ」なるものに立ち向かうためのヒントが欲しかったからです。

 エッセー:随筆。自由な形式で書かれた思索的色彩の濃い散文(広辞苑)
 
 これはいわゆる抽象的な定義ですが、ヒントは必ずどこかにあるはずと思いました。僕がこのエッセイの定義で注目したのは、「思索的色彩」と「散文」という言葉でした。

「思索的色彩」とは、なんとも詩的な言葉ですよね。まるで言葉が思考を彩り、想いの虹がかかる、そんな軽やかなイメージが浮かびました。そうか。エッセイが、あくまでも思索の延長線上にあり、想いを書き連ねていくものであるのならば、言葉を紡いでゆく思考の寄り道のなかで、僕自身、「言葉を紡ぐ楽しさ」に辿り着けるのではないか。そう捉えることができました。するとフッと肩の力が抜け、気持ちが楽になりました。

 そしてまた「散文」という言葉から「散歩」を連想しました。それは僕がポメラニアンを飼っているからです。愛犬の名前は、サンデーといいます。日曜に我が家にやってきた、まさに「日曜日よりの使者」、それがサンデーです。

 サンデーは、小柄ですが意志が強く、飼い主が右に行きたいとロープを引っ張っても、頑なに「左だぞ」と自分の行きたい道を行こうと意思を示します。それで仕方なく、何度も立ち止まり、ふらっと寄り道をすることになります。ですが、寄り道のなかで、川のほとりでゆったりと過ごせる穴場のベンチを見つけたり、アイスクリームがおいしい隠れた名店を見つけたりすることがあるのです。

 そんな愛犬サンデーと散歩する気持ちを思い出し、今回は「思索的色彩」を楽しみながら言葉の「散歩」に出てみようと思います。

エッセイとは、「試み」である

 ちなみに僕はコピーライターとして言葉を紡ぐとき、いきなり書くことはしません。まずは、気になった疑問を調べることから始めます。先ほどは「エッセイ」の定義を調べて、愛犬との散歩に辿り着きました。今度はエッセイの語源を調べることにしました。エッセイという言葉は、思想家モンテーニュの著書である『エセー』(随想録)から来ているということがわかりました。モンテーニュは、エッセイについてこう語っています。

 エッセイとは、人間として生きることの試みである。

 おお、かっこいい。さっきのエッセイ=思考の散歩から、エッセイ=「生きることの試み」になるとは。この言葉を見つけたとき、僕は心にぽっと灯りがともされた感覚になりました。

 なぜなら、これまで僕は言葉を紡いでいるあいだ、「何も行動を起こせていない」という引け目を感じていたからです。「机上の空論」という言葉には、頭で考えているばかりで、行動が伴わないというネガティブな響きがあります。毎日自宅のテーブルの上や、会社のデスクで、空想や妄想をしながらパソコンやノートに言葉を書いていると、それは社会に価値を与えていない空論の時間でしかないのかなと感じることがありました。

 しかし、モンテーニュはエッセイとして「言葉を紡ぐ」ことを、「試みること」、つまり行動だと捉えました。言葉を静的な内に秘めたものではなく、動的な試みとして捉えると、世界は一変します。

 就活生は言葉を紡ぐことで、「やりたい仕事につくための環境づくり」を試みます。
 コーチは言葉を紡ぐことで、「選手の内省のきっかけとなる本質的な問い」を試みます。
 営業マンは言葉を紡ぐことで、「顧客の本当の課題を見出すこと」を試みます。
 マーケターは言葉を紡ぐことで、「顧客の心にうるおいを与えること」を試みます。
 起業家は言葉を紡ぐことで、「アイデアをまなざし、カタチにすること」を試みます。
 そして人間は皆、言葉を紡ぐことで、「自分らしい人生を歩んでいくこと」を試みます。

 言葉で紡ぐことは、自分の人生を前に進めるための、もっとも気軽に取り組める具体的な「活動」なのです。エッセイとは、「思索的色彩」の「散文」であり「試み」です。自分の思索の移ろいをグラデーションのように楽しみにしながら、活動の最小単位である「試み」を行なうのです。

 そう考えると言葉が持つ「軽さ」こそが、最小単位の「試み」として魅力的に感じられるようになります。なぜなら体を物理的に動かす「行動」はどうしても、重くなるからです。

 その重い「行動」の前に、まずは思考を言語化し、言葉を紡ぐことで、小さな「試み」を行なう。具体的な行動に動き出す前に、言葉を紡ぎ、予行演習を行なう。それにより、自信を持って一歩を踏み出せるようになる。なんだ、「言葉を紡ぐ」って行動じゃないか。そう気づけたら、ちょっとワクワクしてきませんか。

「言葉を紡ぐ」ことを語る資格はあるのか

 それでは、そろそろ本題の「言葉を紡ぐことの楽しさ」について思索を進めていきましょう。とはいえ、そもそも僕に「言葉を紡ぐこと」を語る資格があるのでしょうか。

 愛犬との散歩のごとく、すぐに立ち止まってしまいました。まずは自分自身に浮かんだ問いに関しても、答えを探してみたいと思います。

 僕はこれまで広告業界のすみっこで、17年以上「コピーライター」として、たくさんのコピーや企画の言葉を書いてきました。そしてありがたいことに広告の言葉が国語の教科書に掲載されたり、いくつかのメディアで連載を書かせていただいたり、論文やコラムで賞をいただいたこともあります。そして今回も僕が紡いだ言葉をきっかけに、こうして今回3作目となる書籍を編集者から依頼されています。

 そう考えると、こんな自分は「言葉を紡ぐこと」によって、人生をなんとか生きさせてもらっているという感謝の気持ちが湧いてきました。

 そもそも、「言葉を紡ぐこと」は、子どもの頃の連絡帳や日記、卒業文集、テストの解答や履歴書など、常に自分の身近に存在していたことに気づきました。なるほど。確かに自分は言葉を紡ぐことで、自分の人生を紡いできたのかもしれない。それなら、まだまだ未熟なコピーライターであったとしても、僕なりに言葉を紡ぐことで人生を紡いできたといえる。

 モヤモヤを抱えがちな現代に、僕自身が言葉を紡ぐことに関して試行錯誤してきたその思索的散歩を通して、あなたの人生を紡ぐヒントになれるかもしれない。そうか。言葉について語る資格があるか、じゃない。覚悟の問題だったのです。こうして文章を紡ぐなかで、そんな開き直りのような小さな覚悟が生まれてきました。

「言葉を紡ぐこと」に苦手意識と憧れを持つ人へ

 そこでようやく本書を通じて、今回読んでいただきたい読者像と書きたいテーマが見えてきました。

 読んでいただきたい読者としては、「言葉を紡ぐこと」に苦手意識を感じているあなたです。だけど苦手意識を感じている人は、本当は人一倍、「言葉を紡ぐ」ということに憧れている人でもあります。それはかつての僕なので、僕が一番よく知っています。

 そして「言葉を紡ぐ楽しさ」を伝えるということは、「コピーライターはなぜ、ハッとする言葉を紡げるのか?」というよく聞かれる疑問に答えることかもしれません。

 僕の経験だけでは伝えられないことも、僕自身がこれまで出会ってきたコピーライター界の憧れの先輩たちの言葉が教えてくれるでしょう。なぜこの言葉が素敵なのかについて、まさに言葉に恋い焦がれた者として一方的に熱い想いを伝える。そんな広告業界やコピーライターへのリスペクトを込めたラブレターでもあります。

 それではここからは、僕が言葉の散歩をしながら思索を深める過程を一緒に追体験していただけたらと思います。ぜひコピーライター目線を身につけ、言葉で人生を紡ぐ楽しさを一緒に味わいましょう。

 そして読者のあなた自身に、自分らしく言葉を紡ぐ楽しさを実感していただくために、項目ごとに、取り組みやすさ別(基礎・応用)「WORK」を用意しました。実践して、チェックマークを入れながら、読んでみてください。難しいものは一旦、飛ばしてもOKです。本書を読んで終わりにするのでなく、人生を切り開くための小さな「試み」として、あなた自身の体験型読書をお楽しみいただけたら幸いです。

堤藤成

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