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知らない人は子供に教えてあげて! 金魚って実は……

5歳の息子がいろいろな生き物に興味を持っています。そのため、我が家では日常的にテレビや動画で動物関連の番組を見る機会が多くなりました。今まであまり生き物に興味がなかった僕としては、いろいろな新しい知識を得るきっかけになっています。
 
息子が『ざんねんないきもの事典』というアニメを見ていた時の話です。僕が台所で洗い物をしながら何となく耳を傾けていると、こんなナレーションが聞こえてきました。
 
「金魚は雑に飼うとフナになる」
 
!?
 
――そうなの!?
 
どうやら金魚はもともとフナで、人間が長い年月と手間暇をかけて交配を繰り返し、現在の観賞用の姿につくりあげていったのだとか。しかも、手入れをあまりしていない汚い水槽で飼い続けると、先祖返りしてどんどんフナに近づいていくそうです。
 
――知らなかった……。
 
これってもしかして僕が知らなかっただけで、みんなけっこう知っているんですかね?
気になったのでもう少し調べてみました。
 
金魚は原産地が中国で、長江下流域の浙江省近辺の発祥とされています。今から1600年以上前の晋(265~420)の時代に突然変異の赤いフナ(ビブナ)が発見されたのが始まりで、その後、人為的な交配を重ねて観賞魚となり、宋の時代には養殖がさかんに行われていたようです。

ビブナ(Wikipediaより)

日本に伝わった時期については諸説あるのですが、通説では室町時代の文亀二年(一五〇二)とされています。
 
江戸時代に入ると、金魚は観賞魚として一部の富裕層や武士の間で愛玩されるようになりました。華やかな元禄文化を迎える頃には、次第に金魚も庶民の目に触れる機会が多くなり、江戸では金魚売りが桶をかついで街を歩く姿も見られるようになったそうな。

歌川豊国「金魚好 (二十四好今様美人)」 ( 国立国会図書館デジタルコレクション

今日、奈良県大和郡山市は、愛知県弥富市、東京都江戸川区と並ぶ金魚の三大養殖地と言われているのですが、大和郡山で金魚の養殖が始まったのもまさにその江戸時代のことです。具体的には、享保9年(1724)に柳沢吉里というお殿様が郡山藩主になった時のことだと伝えられています。
 
郡山藩に移る以前、柳沢氏は甲府藩(山梨県)を治めていました。ちなみに、吉里のお父さんは5代将軍・綱吉の側用人を務めたことで知られる柳沢吉保です。中学の教科書にも載っている人ですね。
 
柳沢氏は甲府藩主だった時代から家中で金魚の飼育を奨励していたのだとか。宝永年間(1704~11)には、金魚の飼育法に精通した藩士・佐藤三左衛門がその技術を他の藩士達に伝授したと言います。その後、吉里が郡山藩主になった際に、横田又兵衛という藩士が甲府から金魚を持参し、大和郡山での金魚の養殖が広まったそうです。
 
大和郡山で金魚の養殖が地場産業としての地位を確立し、全国的に知られるようになるのは実は明治維新後のことなのですが、金魚の養殖は、藩の財政が窮乏していくなかで、藩士たちの生活を助けたと伝えられています。

とくに柳沢吉里の孫・保光(1753~1817)の時代には、藩士の内職として奨励され、積極的な支援も行われていたそうです。また、次第に研究が進んで養殖技術が向上すると、農家にも副業として広まっていきました。
 
明治維新後、俸禄(給料)を失った全国各地の士族たちの多くが慣れない商売に手を出して失敗するなか、旧郡山藩士は金魚の養殖で身を立てることに成功した者も少なくなかったそうです。いつの時代もやはり手に職をつけていると強いですね。
 
何が恥ずかしいって、実は過去に『あなたの知らない奈良県の歴史』(洋泉社)という本の仕事で金魚について書いたことがあるんです。上の日本に金魚が伝わった以降の内容がそれです。こんな感じのことをエラそうに書いていたんですね。金魚がフナだとは露知らず……。
 
みなさんの家の金魚、フナ化していませんか?
 
もしフナ化していたら、子どもの夏休みの宿題とかで「あえて金魚をフナにしてみた」的な自由研究に華麗にメタモルフォーゼしてあげてください。
 

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