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自由のためのボーイズラブ論 (腐女子とゲイは仲良くできるのか?)

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Subject

第一部 フィクション論 :
・BLと百合は全く違う⁈
・ゴールは自由な恋愛の獲得

第二部 BL論 :
・圧倒的 BL の王道プロット
・ゲイは空想の生き物か?
・存在証明と、儚さと、耽美BL
・BL好きと百合好きは仲良くできない⁈

第三部 百合論 :
・BL視点で語る 「百合」
・BLから考える 百合の王道プロット

まとめ 自由恋愛論 :
・BLと社会、経済と百合
・腐女子とゲイは仲良くできるのか?

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第一部 フィクション論 :

BLと百合は全く違う⁈

 「百合SF論は、僕からすると、全くもって虫酸が走る話だな——。」これは、百合というものを理解していなかった筆者が、BLと百合を男友達から並列で語られたときに吐いたセリフである。BLにも百合にも馴染みのない人からすれば、どちらもフィクションジャンルの中の男性同士の恋愛(=BL)と、女性同士の恋愛(=百合)であり、ただ主人公の性別が違うという認識だろう。しかし、全くもってそうではない。そもそも、「なぜ同性愛を描くのか?」という行動原理が違うのであり、元となる感情が違えば、その創作の過程も、消費のされ方も違う。このテキストは、おなじ同性愛のフォロワーでありながら、なぜ、時に相容れず、争ってしまうのか?を追うSNS時代の自由恋愛の道しるべである。

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ゴールは自由な恋愛の獲得

  創作物において、同性愛表現が行われるときの行動原理はなにか。それは、作者が「今よりも自由な恋愛」を夢見ることだろう。しかし、「自由な恋愛」=「同性愛」ではない。考えてみてほしい、BL読者は同性愛者か?いや、そうでない。BLにしろ、百合しろ、作者や読者が同性愛者であるかや、読者と主人公の身体性別の一致は、あまり関係がないことのだ。
  昭和の日本における自由な恋愛のイメージが、親のお見合いに依らない西洋式ウェディングであったように、時代によりけり、人によりけり、恋愛の理想と悩みは変わる。過去から現在に至るまで無数にあり得るのだ。ただ、それらをフィクションに委ねられるときの解決方法は、一貫して、大きく2パターンに分けられる。セックスをリアルに叩きつけるか、セックスを空想に着地させるか、その2択なのだ。

「セックスを空想に着地させることで求められる自由」というのは、blやゲイカルチャーからすると立場が真逆すぎるんだろうね。過剰に演出されたセックスのリアルを世間に突き立てることで、勝ち取られたのが男同士の恋愛における自由だ。(空想⇔リアル)


第二部 BL論 :

圧倒的 BL の王道プロット

  セックスのリアルを押し出すことによる恋愛の自由の獲得という意味で、BLとゲイカルチャーは、構造的に近い。彼らの主な表現手段は2つだ。

  1つ目は、セックスを生々しく強烈に描くこと。これは王道だろう。BLであれば、やおいといわれるジャンルがわかりやすい。現代では、ヒットする娯楽のほとんどが分かりやすいストーリーを付けられたものだが、文脈や社会的背景、作者の思想に目を向ければ、ストーリーのないやおい作品も、BL史的には重要で、面白い。ゲイカルチャーであれば、ドラァグクイーンやGOGOボーイの過度に誇張したジェンダーパフォーマンスは同様の行動原理として捉えられるだろう。

  2つ目は、ゲイに翻弄される愚かなシスヘテロの男を描くこと。近年では、『おっさんずラブ』のはるたんが、わかりやすい例だっただろう。フィクションの主人公やヒロインが、天然で、時に不幸体質な、頭の弱い女の子であることが多いように、ノンケ男子は、バカで、愚かで、かわいいやつとして性的な消費の上にある。

  フィクションの表現から想像すれば、BL市場の拡大とゲイ・プライドの確立は、この2種類の表現手段を繰り返し刷られたことで、現在に至るはずだろう。現実の世界に少なからず、影響を与えているのだから、彼らの行いは、作者と読者の中で自然と正当化されていく。BLの世界観のデフォルトは、現在でもアバンギャルドなのだ。


(※耽美の話はまた後で→bl・ゲイに近い)
(※例外としては、衆道、硬派、蔭間、男色→百合に近い)

“『ペガサスとか、ユニコーンとか、そういう空想上の生き物を見つけた気分だったんだ。僕みたいな人間がこの世に他にもいて、ちゃんと生きてて、それだけでなんか嬉しかった』”

〈続・彼女が好きなものはホモであって僕ではない〉中学2年生、冬(1)より 著・浅原ナオト

ゲイは空想の生き物か?

  BLやゲイカルチャーは、どうしてそんなアバンギャルドな手段しか持たないのだろう。対して、筆者なりの答えをいうなら、ゲイは空想の生き物だからだ。
  NHKでドラマ化もされた小説『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』の作者は、自身がゲイでありながら、腐男子であることを公表している。その続編小説の中で、ゲイのキャラクターが、初めて自分以外のゲイに会ったときの台詞が興味深い。その感情を「ペガサスとか、ユニコーンとか、そういう空想上の生き物を見つけた気分」と表現するのだ。これは、ゲイである作者自身の実体験からくる言葉であるとともに、BL表現はなぜリアルな性を突きつけたがるのかの答えにも繋がるだろう。

  ゲイは可視化されないマイノリティである。本来的には、自身か他者のどちらかからの勇気を持った告白を得ない限りは、恋愛のスタート地点にも立てない。自身と同じ性質の人はこの世界にはいないんじゃないか? いたとして、その人は自分の恋人になってくれるだろうか? その孤独は、自分自身の存在の不確かさにつながる。
  ゲイが空想の生き物か?と聞かれたとき、別のニュアンスで想像していたのではないだろうか。腐女子がゲイはフィクションの中の存在で、現実に存在しないかのように振る舞う様子。対して、ゲイは現実に生きているんだと、ゲイコミュニティが抗議する様子。そうした現実も、間違いではない。ただ、おさえたいポイントは、ゲイ自身も、空想の生き物としての自覚があり、この自認の根幹こそが、フィクションを通して、ゲイと腐女子(腐男子)を結びつけるキーであることだ。そう、このテキストは、SNS時代の自由恋愛の道しるべを目指すのだ。

存在証明と、儚さと、耽美BL

  話を深掘りする。「自分の初期リスポーン位置が空想の上にある」という感覚が、フィクションの表現の中で大切にされていると、仮定しよう。そうすると、理解できる部分がある。
  ゲイに限らないのかもしれないが、自分の足元が空想に置かれてる感覚のある人は、セックスはリアルに描かないといけない。リアルなセックスを他人に押し付けることで、初めて自身の存在証明ができる。そういう感情があるからだ。ゲイであり、孤独であるならば、どれだけ情動的なセックスをしたところで、子供が生まれることはない。それは、自身の生きた証が世界に残らないことを意味する。だから、現実のゲイのセックスは、演出されたリアルさも、情熱も、行きずり性も虚しく、嫌でも空想に着地してしまう性質がある。性の生々しさは、性の儚さと同居しているのだ。

  とはいえ、ゲイのセックスがリアルに着地するときもある。それは、HIVや死に着地するときだ。フィクション表現においては、HIVだけにとどまることはまずないので、ゲイのストーリーはデッドエンドが多い。しかしながら、キャラクターの死までを表現されてしまうと、それはファンタジーなテイストとして処理されてしまうから、結局はそれも意図しない空想に着地してしまう。耽美BLは、退廃的で、倒錯的で、死を匂わせることが多いが、それも生々しく強烈に演出されたセックスの表現の派生にすぎないのだと思われる。だからこそ、子供産めるオメガバースは良くも悪くも革新的すぎて、賛否が分かれるのかもしれない。



“ 海を前にした崖に、草が生えていて、フェンスがあり、灰色の海と空が広がって、無人の2人がけのベンチがある……という画像を「#百合」とタグをつけてアップしている人がいたんです。”

“どういうわけか、草原って百合なんですよね。”

『 百合が俺を人間にしてくれた――宮澤伊織インタビュー』 より


BL好きと百合好きは仲良くできない⁈

  さて、筆者は、百合を理解していなかったと言ったが、その発覚は、要約すると「広い草原とベンチがあったら、百合」というネット記事を引用した友人の発言に起因する。後のテキストでフォローするが、一旦、雑にまとめると、「リアルな性を演出することによる自由な恋愛の獲得と、その根底にある孤独と儚さ」を追求してきたBLに対して、百合とは「性にリアルさを求めず、キャラクター同士の強い感情での結びつきが至高だ」という立場だ。
  立場が真逆というのはこういうことで、仮に、BLやゲイのキャラクターが、そもそも足場が空想の上にあるのに、セックスまで空想にしてしまったとしたら、彼らの自由を勝ち取れない。どちらも、同性愛者のキャラクターであるのに、どうして百合はそんなことをわざわざするのか、それが、理解ができないかったのである。

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逆に、blやゲイカルチャーと同じ構造で、ボカロキャラクターがリアルなセックスを獲得していくのは、理解しやすい。鏡音レンや初音ミクが、攻めたセックスを歌う曲が多いのも、セクシャルマイノリティを扱うのも、彼らの初期位置が空想にあって、空想の機械の身体が、いかに人間のリアルと自由を手に入れるかというストーリーが根底にあるからだろう。

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第三部 百合論 :

BL視点で語る 「百合」

  百合に限らず、「セックスを空想に着地させることで求められる自由」というのは、社会の中で常に一定数求められてきたのではないか。恋愛においてセックスをしたくない人は言わずもがな、ゲイのセックスアピールと比べれば、レズビアンやポリアモリーの人もそういう自由を求めるイメージはなんとなくある。そして、様々な理由からセックスに対して好意的に思えず、不安を抱く人であれば、さらに居るだろう。きっと、自分の初期位置がどうしようもないリアルにあって、セックスを空想に着地できたら、少なからず自由が得られるのではないかと、筆者は仮定する。しかしながら、「自身の存在がリアルなものに思える」か、「リアルなものに思えないか」という2択は、さながら、コップ半分の水を見て、多いと思うか、少ないと感じるかの2択であり、あくまで、その人の人生の歩みから感じる感覚的な分け方にほかならないと定義する。

  また、blやゲイカルチャーの場合は、自由な恋愛の定義とその表現的手段が、社会的な背景に起因すると考えたが、百合は、この点も逆であるように思う。百合の場合は、社会的な自由を求めるのではなく、精神的な自由を求めるアベレージが高いのではないかと思う。さて、想像が難しいのは、その根底にどんな意識や社会背景があるのかだ。

BLから考える 百合の王道プロット

  百合に馴染みのない筆者が、百合の理解のために参考にしたのは、「衆道、硬派、蔭間、男色」といわれるジャンルの男同士の恋愛だ。これらは、現実の日本で社会背景がありながら、その同性愛的行為に興じた当事者たちとフィクションの関係が、現代の百合にニュアンスが近いと思われる。そこから考えると、BL同様、2つ王道プロットを見つけることができた。

  1つ目は、合理性である。硬派や男色文化では、「避妊しなくても妊娠しないこと」や、「男女の色恋に現を抜かすより勉学に集中するためにそうしたことは男同士で済ませたほうがいい」という時代背景があげられる。そのような合理性。現代でも通じる考え方にすれば、「個人で達成したい目標があって、だからこそ、同じ目標を共有している仲間との関係性が大事だ」というのが、前提としてあるのだろう。

  この男性が社会の中で生き抜くためのテーマ性は、若い女性キャラの、部活で一緒に「けいおんしよう!」「ダンベル持とう!」のようなフィクションに置き換わることもある。こうして定義される恋愛は、友情と地続きにあるから「強い百合」というような、どれだけキャラクター同士の感情の結び付きの強さを作者が描き出せるかという創作競争にもつながる。
  その定義であれば、『Free!』シリーズは、ニ次創作はBLだけど、本家のアニメは百合的であるといえる。

  2つ目は、あまり触れないほうがいい側面なのかもしれないが、ラノベによく妹キャラ(主人公はなにかを教えないといけない)や、女教官(主人公はなにかを学ばないといけない)がでてくるのは、興味深い。また、硬派と男色でいえば、「勉学に集中するため」という口実で、手短な男性同士の性行為に興じる。思うに、「オクテな読者のための恋愛の口実」というのも重要な構造だろう。擬似恋愛に応じたかと思えば、次の瞬間には、また何事もなかったかのように、主人公たちは各々の目標へと突き進むのだ。
  BLの王道プロットが扇情と翻弄であったとすれば、百合は合理性と口実の芸術かもしれない。百合とは、コンサバティブなのだ。

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まとめ 自由恋愛論 :

BLと社会、経済と百合

  さて、BLはリベラル、百合は保守と考えられるかもしれない。つまりは、BL側からすれば、どうして恋愛のために合理性や口実がいるんだという疑問が生まれ、百合を不審に見てしまうのだ。しかし、百合側からすれば、その視点こそが、彼らの最も嫌がる「恋愛の自由侵害」となる可能性がある。BL好きは、自身の社会的孤立と社会性の欠如を指摘されるのを恐れ、一方、百合好きは、ホモソーシャルな歯車としての自身と主体性の欠如を指摘されるのを恐れている。元となる感情や行動原理が違うとは、こういうことなのだ。 
  ここまで、「なぜ同性愛は描かれ、消費されるのか」というフィクションの社会的役割と、BLと百合の違いを語ってきた。しかし、いくつかのモヤモヤは残ったのではないだろうか。

  例えば、BL論で挙げた『おっさんずラブ』のはるたんは、ゲイに翻弄されるノンケという笑いの対象であったし、性的搾取の対象でもあった。加えて、ゲイカルチャーに寄せるのであれば、結婚のような異性愛規範的なゴールは想定されなかったはずだし、ラブコメのテンプレをなぞることもないはずである。こうした視点は、『おっさんずラブ』のファンからすれば気持ち良くはないだろう。日本における地上波BLドラマの成功の功績は大きいとともに、偏った価値観の正しさの証明であるかもしれないのだ。
  フィクションに危うさは付きものだが、BLの持つ危うさとは、そのアバンギャルド性と、アバンギャルド性を抑えて脚色しまうことでの現実社会の軽視であろう。作者自身の内面の問題から起因して、創作物として表現され、社会に影響を与える。その点が特異であり、BLは、百合と対照的に、能動的なフィクションなのだ。

  こうしたフィクションがエンタメであるがゆえに、必ず内在する危うさは、百合にも言える。百合の危うさとは、その創作が景気によって左右されることだろう。
  百合は、競争社会にも関わらず、男性がお金を持てない時代に必要とされる。構造的に、景気と直結しやすいのだ。なぜなら、百合とは、経済を担う男性視点の癒しのカルチャーだからだ。思えば、男色は江戸。硬派は明治。エスは大正。戦後から昭和にかけては、百合は流行りづらく、時代が空いて、バブル崩壊後にセーラームーンやウテナが登場し、後の美少女コンテンツの礎となる。景気の悪さから失われる男性の自信は、彼らのオクテ度を上げていき、美少女、萌え、百合へと需要を変化させたのではないか。つまり、百合とは、BLと対照的に、経済的な社会から要請され、創作物として表現され、消費される、受動的なフィクションなのだ。

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  さて、こんなにも違うのだ。BLと百合は、全く、平等で並列には語れない。男女の経済格差、ジェンダーギャップが解消されないかぎりは、真の意味で、百合の創造性は語れないのではないか、とすら思われる。そして、同性愛者への差別も偏見も将来なくなるとすれば、BLは描かれなくなるのだろうか。BLが同性との葛藤で悩むに対して、百合が異性との葛藤に悩むように見えるのも、興味深い。どちらの立場にせよ、フィクションによって獲得される恋愛の自由というものがあるのだ。

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腐女子とゲイは仲良くできるのか?

  究極的には、BLにしろ、百合にしろ、悩んでる点と作品のテーマは、ジェンダーの話ではない。あくまで、自身のアイデンティティをどう決めるか、もしくは、決めないかという話といえる。
BLやゲイカルチャーは、「同性愛者」というのをそのまま自身のアイデンティティ(=誇り、プライド)にしてしまう立場だ。一方で、百合とは、自身のアイデンティティを「同性愛者」にはせず、もっとほかのところで自身の個性を確立するか、もしくは、立場を決めないという立場である。
  アイデンティティの確立は、身体的な性別には関わらず、その人の経験に基づく、人生観と決断力によるだろう。そう考えると、腐女子には、壁になりたい派の百合よりの立場の腐女子もいれば、ただリベラルでアバンギャルドなゲイよりの腐女子もいることなる。BLにも百合にも理解がない男性は、思想の偏らない主体性があるのだろう。LGBTや社会のために活動したいマイノリティは、きっとBL的なのだろう。エロ必要派と必要ない派の腐女子の対立は、想像以上に根深い問題だった、なんてことも分かる。ということで、仲良くできるか?は、ジェンダーではなく、アイデンティティのレベルで決まるのだ。それに、仲良くできなくたって、理解し、歩み寄れるなら、とてもよいではないか。

このテキストは、
SNS時代の自由恋愛の道しるべである。——


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