落語の人間国宝~新作と古典の分類は必要か?【ほぼ無料】

今回、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)についての記事です。

たまに六代文枝師匠のことを、
「愛人が見つかったから人間国宝になれない」などと揶揄する方がいますが、それは間違いです。

ある意味、将来、六代文枝師匠は人間国宝になれるかもしれない(し、なれないかもしれない=可能性は存在する)という記事でもあります。

今回は、落語世界に蔓延る「人間国宝」についての間違いを指摘したいと思います。


【そもそも人間国宝とは?】

人間国宝とは「重要無形文化財保持者」と言われます。

まず、重要無形文化材を簡単に言うと、

「無形文化財=形の無い文化財」=”人間のわざ”のうち、
国が特に重要と認定したものが「重要無形文化財」です。

そして、そのわざを体得している人間を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)と呼びます。
(※参照=文化庁「無形文化財」のページ

その意味で、人間国宝は、そのジャンルの最高峰と国が認定した人とも言えます。


【実は落語は重要無形文化財ではない】

衝撃的な事実ですが、、、、
現在、落語は重要無形文化財ではないのです・・・。

我々落語の世界で、重要無形文化財に指定されているのは、

「古典落語」

だけなのです!
(※参照=文化庁・報道発表:令和5年7月21日)

つまり、現代においては、
「新作落語」のイメージが強い噺家は、人間国宝になれないのです。


ちなみに文化庁の無形文化財のページによると、

「国は、重要無形文化財を高度に体現しているものを保持者または保持団体に認定し、我が国の伝統的なわざの継承を図っている」そうです。
(※参照=文化庁「無形文化財」のページ

ということは、今のところ、日本は、

「古典落語は、伝統的なわざの継承を図ることができる芸能」で、
新作落語はそうではない

という認識のようです。

しかし、これは非常に問題だと思います。
長唄や歌舞伎でわざわざ「古典と新作」を分けてないのに、なぜか落語だけは「古典と新作」に分けているのです・・・。

実は新作落語を作って口演するためには「伝統的なわざ」が必要なのです。
「伝統的なわざ」が継承されているからこそ、「落語」たりえているのです。

現在、重要無形文化財のジャンル認定してる人は、上記のような認識を持っていないということなので、今後、是非ともこの認識を持ってほしいものです。

では、なぜそういう認識が持たれず、落語は「古典と新作」に分けてしまわれやすいのでしょうか?
それは時代背景や社会の認識もあります。

これについて、今から解説しますが、それを踏まえて先に今回の記事の冒頭についての結論だけ書くと、、、

重要無形文化財のジャンルが「古典落語」から「落語」に変更されれば、六代文枝師匠は「人間国宝になれないわけではない」ということになります。

※六代文枝師匠は新作落語の巨匠ですから、「古典落語」というジャンルにおいては人間国宝に定義上「認定されえない(候補者にすらならない)」のですが、「落語」というジャンルになれば少なくとも「候補者」にはなれます。そういう意味で「なれないわけではない」ということです。


【古典落語と新作落語】

そもそも元は「落語」という言葉しかなかったはずです。
新しく落語を作っても、それは普通に「落語」と呼ばれていました。
ある時から、(その頃に)作った落語を「新作落語」と呼び、それに対して「古典落語」と呼ばれ出すという流れです。

そもそも「新作落語とは?」みたいな解説になると、一応は

「戦後に出来た作品」で「作者が明確な作品」

みたいなことが言われています。
※ただ、実は明確に定義されていません。「代書屋は米團治師匠が作った新作だが、今は古典と言って良い」とか言うように、定義がブレブレです。
→作者が死んで、一定期間経つと「古典扱い」になりやすく、「一文笛」などは、それにほぼ近い感じです。
※少なくとも、今生きてる人が作者の落語は絶対的に「新作」ではあります。

私が入門した時には、まだ業界だけでなく、お客様の感覚としても「古典と新作を分ける時代」でした。
それは高度経済成長期とその流れで、世界がドンドン変わっていき、「時代もの」と「現代もの」でネタが大きく違う感じがしました。
またお客様も、新しい時代の人と旧時代の人で「感覚の違い」をそれぞれがドンドン感じていく時代でもありました。若い人を「新人類」とか言い出していく時代でもあります。
「古典落語に存在するモノへの違和感」以上に、「その世界で暮らす登場人物の気持ちだけでは、世界=社会を表現しきれていないということへの違和感」が増えていってる時代だったと思います。
その違和感を敏感に感じ取り、現代落語(現代的な新作落語)を作り始めたのが三遊亭円丈師匠です。
その後、東京大阪で現代的な新しい新作落語が生まれていきます。
(円丈師匠以前にも新作落語は存在しますが、そういう種類のモノではないようです)

そういう社会情勢でしたので、
当時(今も少しあるかもですが・・・)、

「古典落語」は、一定の人には「これぞ本物!」である一方、一定の人に「古臭い」と感じるものであり、

「新作落語」は、一定の人には「うすっぺらい!」「意味が分からん」「古典に比べて作品の精度が低いものが多すぎ」であり、一定の人には「今の時代感覚にピッタリ」「新しい!」と感じるものでした。

現代では「世代による感覚のズレ」「世代による環境変化とそれに対する意識の違い」はあるものの、全員が完全に「現代人」になっています。
誰も「長屋の共同体に住んでる人」ではありません。いわば、昔の「醤油の貸し借り」をする感覚を未だに実践的に持っているような人は、壊滅しました。
そして、落語の認知が急激に下がったので、お客様にすれば「古典も新作も区別なく、落語」という認識でしかないです。ドラマを見て、「江戸時代であれ、未来であれ、現代であれ、それはドラマでしかない」みたいな感覚と一緒です。

つまり、落語が捉える世界のうち、「全世代的なマスの層に向けて行う笑い」「特定の世代や特定の客層に向けて行う笑い」を噺家は、客席の雰囲気を見て行うことは勿論ありますが、現代において、「旧時代の人と、現代人との間にある大きなギャップ」が客席には存在しません。しかし2000年くらいにはまだ存在していたのです。いわば旧時代の感覚の人(その当時、団塊の世代が年寄りと思う年上の人達)が客席に多数存在していました。その人達と団塊の世代以下が混在していたので、ギャップがあったと思います。
しかしながら、少なくとも今は、そういう旧時代の人は客席におらず,団塊の世代以下が持つ「現代人的感覚」という根底の共通感覚を客席は共有できています。
(私が入門した頃はまだ旧時代の感覚のお客様も沢山いましたので、私の師匠の落語をそもそも理解&共感できない年配の方々が結構いてました)

その意味で、現代は「新作と古典」をお客様が区別する感覚は、ほぼ無くなったと言えます。

この状況において、落語を新作と古典に区別する必要があるのでしょうか?

【区別はクリエイター目線のみ?】

お客様にとって新作と古典を区別する必要はないと思います。

もしも文化庁が重要無形文化財という「人間のわざ」に注目するなら、「古典落語」と「新作落語」の両方を認定するか、「落語」というジャンルで認定すべきです。

従来は「落語を作る作業」は、「継承できない技術」と考えられていたのかもしれませんが、実は継承可能な技術です。
だからこそ、先輩と後輩で「新作をする噺家の割合」を調べた場合、明らかに後輩の方が新作もする噺家の比率が増えています。
(「新作を」ではなく、「新作も」です)

落語の発展によって「口演の技術」だけでなく、「演出の技術」「創作の技術」が進化し、先輩方の技術を後輩が継承発展(普遍化・カスタマイズ化)していったのです。

※参考=笑福亭たまYouTube…一旦、動画を飛ばして後で見て下さい
「新作落語と古典落語【長所と短所・新作が一般化した理由・新作の参考資料】」


ちなみに先輩方によって新作落語を作る上で「何をどうすれば落語たりえるのか」という文法が解明されていきました。こういうのは「言語化できる継承できる技術」です。もちろん、一般的に言語化されていない技術や秘伝も沢山あるかとは思います。

※参考=笑福亭たまYouTube…一旦、動画を飛ばして後で見て下さい
落語の文法【新作づくりの参考資料】上方と江戸・基本構造・例外の重要性


そういう意味で、「継承できるかどうか」という目線でのアーティステック基準において、新作と古典を分ける必要はないと言えます。

古典だけする人はSinger(歌手)みたいなもので、
新作もする人はSinger-songwriter(シンガソングライター)みたいなものです。
古典落語家は脚本と俳優と演出です。新作落語をする人は原作もするというだけです。

クリエイターとして「シンガソングライターになるかどうか」=「原作」を手がけるかということですから、もしも「敢えて分ける」なら、落語家内部ぐらいの話かと思います。

新作と古典を分けるというよりは「新作を作るか、作らないか」という噺家の分類は存在しても、作品自体へのジャンル分けは、ほぼ不要だと思います。
新作であれ、古典であれ、名作駄作は発生しますし、各作品への個別評価が分かれるだけかと思います。古典だから新作だからという時代ではないということです(それで何か顧客が作品への感想を変えることはほぼ無いということです)。だから、イチイチ分ける必要がないのです。

噺家が自分の生業において、
原作をもらうのかとか、原作づくりのノウハウをもらう気があるのかとか、そういう研究をするのか、、、とか、
稼業の選択肢として「新作をするかどうか」を考えるべきことはありますが、基本は分類が不要だと思います。

【それでも分類する事情!~ブランド戦略】

こんだけ不要と書いても、私自身が「新作は…」とか言ったり、「新作落語特集」と銘を打つイベントを今後もやっていくとは思います(笑)

それは商売だからです(笑)

商売をする上で何かキャッチコピーやカテゴライズがあった方が、お客様は「手に取ろう」という購買意欲が生まれます。商売としてはある程度の分類はあった方が良いのです。またそれが、ブランド戦略にもなります。

だから私は、今後も他の噺家同様、
「古典の大ネタに挑む!」「新作落語特集!」「●●ネタおろし!」「●●直伝!」などの、わかりやすい広告的ブランド戦略はやります(笑)その一環で新作と古典を分類します。。。
中身を知ってる人に対しては、そんな戦略は無意味で、公演内容そのものの魅力で集客するしかないです。しかし新規客へのアプローチとしては、「特別感」=ブランド化は必要になってくる場合があるという話です。

その意味で商売として、どうしても落語には「分類」が発生してしまうのです。

実際、その1つが「創作落語」という分類です。
新作落語という呼び名だけで良いはずなのに「敢えて別の言い方」=「創作落語」というブランドが、なぜできたのでしょう?(後で解説!)

この「創作落語」というブランド戦略がもたらした歴史的影響・社会的影響は凄まじいものです。
今から歴史的経緯とともに、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいなことを後述しますが、おそらくこのブランド戦略を考えた人も、最終的に「重要無形文化財の落語のジャンル認定」に影響を与えることになるとは思いもしなかったと思います・・・・。
(実際、今も誰もその影響とは考えてないと思います。あくまで私個人の感想と意見です)

それでは、ここから「創作落語」というブランドがもたらした歴史的影響・社会的影響についてこの後、深めに考察していきます。

すいませんが、ここから「ほんの少しだけセンシティブ」になるので有料です。

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