落語家の暴露本&マクラとキャンセルカルチャー、そして「平家物語」【ほぼ無料】

落語家の暴露本マクラの毒舌は、賛否両論がよく出ます。
この問題は古くは「平家物語」とリンクし、現代では「キャンセルカルチャー問題」ともリンクします。

本日は、暴露本やマクラという卑近な話をアカデミックに話します(?)

ちなみに「キャンセルカルチャー」とは、、、(↓たま意訳)

特定の人物・団体の発言や行動を「問題がある!」と批判し、キャンセル(雇用取り消し・団体解散・発売禁止などになるよう制裁)しようという運動のことです。
(wiki は以下)→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC

わかりやすく言うと、芸能人が問題起こした時に、再起不能になるまで叩きまくることです。また学者が何か言うた時に「その学者を学校から追放するまで叩くこと」であったり、「追放するまで叩こうとすること」であったりすることが、キャンセルカルチャーやと思います。
(法的な範囲を超えて、お気持ちで糾弾する形になるという問題が出ます)

凄い大きなテーマですが、今回のテーマは、、、

「落語家の高座の悪口は、キャンセルカルチャーになるのか?」
「落語家の暴露本はキャンセルカルチャーになりうるのか?」

という話です(笑) 

そしてこの話を「平家物語」から解説するという大胆な記事です(笑)

勝者の話は歴史、敗者の話は文学

昔、TVで、どこかの学者の先生が「平家物語」の解説をしていた時に

「勝者の話は正史(歴史)になって、敗者の話は文学になる」
「勝った側が、歴史書を自分に都合の良いように書いたりして残っていくけど、負けた側も残したいんです。それが文学になるんです」

みたいな話をしていました。

「なるほど」と思いました。源平で言えば、勝った側=源氏が政権を握る訳ですから「源氏が正義で、これぞ正しい歴史と源氏側が言うものが残る」訳です。そうなると善悪は勝ち負けでしかなくなります。そうなった時、負けた側=平氏は「こっちにはこういう理由がある」と言いたくなるのも分かります。

今日は、このテーマが落語家のマクラや落語界の暴露本と物凄い関係があるというのを書いていきます。
ただ、その前に私が学生時代に習った教科書の「平家物語」への違和感から話を始めます。

「平家物語~扇の的」の最後

●教科書はキレイなオチではなかった…

中学の古文の授業で「扇の的」を習いましたが、私は当時、違和感を持っていました・・・。それは、

”那須与一が扇の的を射った時、源平ともに「あっぱれ」みたいに大騒ぎした”という部分で終わらなかったことです。

わざわざ、そのあと、

平家方の舟の上で、50歳ぐらいの男が感極まって踊り出したのですが、義経の指示で那須与一は、この人を射ち殺します・・・。平家方はシーンとなったんですが、源氏方は大騒ぎして、「よく射った!」と言う人と「心無いことを…」と言う人がいた

という「謎のくだり」がついていました。
・・・ハッキリ言って、この「くだり要る???」とずっと思っていました。(私が30歳ぐらいまででしょうか…)

「扇の的」としては、那須与一が的を射切ったところで「話のオチ」はついています。
※実際、この50歳の平氏が射殺される部分は、「扇の的」ではなく、「弓流し」という部分で、扇を射って皆が大騒ぎしたまでが「扇の的」なのかもしれません。しかし、私が習った教科書では、この50歳の人が射られるとこまで入っており、なおかつ「弓流し」のメインの「義経が弓を落として探す」部分はありませんでした。

では、なぜ、この「50歳の男が射られる」シーンが敢えて教科書に載っていたのでしょう…。

●蛇足みたいな部分の意味

源平はともに「扇の的を射られるかどうか」で心を1つにしていました。
敵味方関係ない状況でした。
でも、それが終わった途端、源氏は無粋にも戦争を開始したのです。
もちろん、「一番隙が出来てる時に攻撃するのは効果的」です。
源氏は「これは戦なんだから、当たり前!」という勝つための論理的行動です。一方、平氏は「いやいや、今はそんなん違うやん」みたいな感覚やと思います。ある意味、源氏は「非情」とも言えます。だからこそ「勝った」みたいな気がします。

まさにここからは読書感想文的な話ですが、、、、
私は30歳ぐらいの時に、「教育者が子供たちに送るメッセージ」を感じました。教科書とは、”日本で最も「子供に賢くなって欲しい」と言う気持ちを持つ人たち”が考えた本・・・という風にもこの頃から思い出しました。

メッセージは「自分で考えよう」になるのですけど…。
「勝つためには非情になるべき」とも取れますし、そういう行為は無粋と思うのも一興です。「平氏は手ぬるいから負けたのであって、源氏が正義というものでもない」という風にも取れます。「そんなとこでオッサン、ちょけるから射られんねん…」かもしれません(笑)
これを読んで「どう生きたいか」を、教育者は子供たちに自分で考えて欲しいのでしょう…。生き方に何が正解とかなく、自分で決めて欲しいからこそ、この「50歳の人が射られるくだり」まで教科書に載せていたのか・・・と、ある時から思うようになりました(私見ですが)。
扇の的を射られるかどうかという単なる「シューティングゲーム」の文章ではなく、この50歳の男が那須与一に射られる部分まで載せることで、この古文が一気に「ヒューマンドラマ」になっているように感じます。

「美しく生きる」との対比で「醜く生きる(何が何でも生きる)」というのがあります。しかし、結局「何が何でも生きる」を突き詰めると、それはそれで「面白い(美しい)」かったりします。それにそもそも別に、美しく生きなくてもよいですし(笑) 何が正しいかはわかりません。
そんなことを「平家物語」の「50歳の人が射られる」部分から感じました・・・。
ただ、「勝者は歴史を残し、敗者は文学を残す」ということも実感させてくれました。


噺家のマクラも「敗者の文学」

噺家が落語の前に喋る世間話みたいなフリートークを「マクラ」と言いますが、そのマクラも、ある意味「平家物語」と同じような気がします。
その噺家が喋ってる内容は、社会全体からすれば「敗者(負け犬の遠吠え)」である必要があると思います。だから笑えるんやと思います。

高座においては、落語家はある種の強者(話すことができる唯一の人)ですが、会場のお客様が審判し、それに共感すると笑ってもらえます。しかし、そこで話してる内容は、別に社会に全く影響を与えません。YOUTUBEやTwitterなら拡散する可能性はありますが、ライブで「30人~200人」に喋ったところで何の影響が出ましょうか、、、全く出ません。つまり、落語家は微妙に社会的弱者=敗者だからこそ、笑えるんやと思います。

私が昔から思っていることですが、落語家はマクラで、誰かの悪口や批判を言う場合がありますが、「その悪口を言われた相手が、それで営業妨害になったらアウト」だと思います。
その場がウケるかどうかは別の基準として、「営業妨害にならなければセーフ」です。もし営業妨害になった場合は、たとえ噺家同士の悪口であっても噺家仲間において問題が発生しますし、そういう仲間内で大きな営業妨害を犯す人は長期的にお客様も減ると思うからです。ただ「営業妨害になってるか」の基準も、「悪口を言う相手が強ければ、悪口の影響も誤差の範囲」に収まるように思います。あるいは話者が弱者であれば大丈夫とも言えるので、「程度の問題・比較の問題」かもしれません。

もちろん、喋ってる中身が面白いということが大前提ですが、噺家が言う悪口は大概「自分が被害を被った話」です。さらに「それが相手の営業妨害にならない」=「自分が敗者側」なので、「文学(エンターテインメント)」になっているということかもしれません。まさに「平家物語」と一緒です。
もしも、自分の悪口で、大きな営業妨害が起きて相手の仕事に影響が出た場合、それは自分が勝者になっている証拠であり、弱い相手をイジメてるだけになるので、「文学」ではなくなります。(イジメ的なエンタメかもしれませんが、文学ではないです)

そう言うと、ネットや雑誌で「有名人が社会的地位がなくなるまで叩く(キャンセルカルチャー)」を見た時、後味悪く感じるのはこれが原因かもしれません。結局、当事者でもない人たち=世間という強者が、最終的に「イジメ」をしてるように思うからでしょう。単なる告発なら「告発者と告発される人」ですが、「関係ない人たちの大きな声=世間の声」で「告発されてる人」をたたきまくるのはイジメになるんだと思います。そうなると、結局、笑えないですから。

「キャンセル=営業妨害(の最大値)」ですから、キャンセルカルチャーは長期的な「笑い」から遠いように思います。

落語のマクラは、その意味で「平家物語」と一緒で「敗者の話」であることが重要な気がします。決して、誰かの社会的地位を引きずりおろすキャンセルカルチャーになってはいけないようです。キャンセルすると、「敗者」ではなく、「勝者」になってしまうからです。

しかし、今は情報がスグに拡散されてしまう世の中なので、正確には「確実にキャンセルされたか」は結果論でしかないということです。どんな悪口も批評も、「相手のダメージが0」というのは、ほぼありません。誤差であれ、ダメージが発生する訳ですから、自分の言葉が世間を動かして、最終的に相手がキャンセルされるかもしれません。それについては、どこまで言っても、「未必の故意」と言われかねません…。
落語会はクローズドの場ですが、その瞬間、高座で面白かったとしても、それが何かで拡散されて大衆に伝わった時に「おおごと」になるかもしれないですから。我々噺家は「おおよそ、この会のマクラはどこまで拡散されるかを予想しながら喋る」という必要があるのかもしれません。

その意味で、よくファンが「自分の好きな噺家が売れて欲しいような、売れて欲しくないような…」という気持ちは当りかもしれません。売れれば売れるほど、その噺家は「クローズドな話」は出来なくなり、常に「オープンなトーク」しか出来なくなります。今まで小さい会では「コアな話」をしてくれ、大きな会やメディアでは「オープンな話」でしたが、メジャーになるとそういう訳にはいかなくなります。TPOをわきまえるなどなく、「常に不特定多数に向けた会話」となりますから。
(※この私のnoteも、私が物凄いメジャーな落語家になったら、有料部分は、特にいっぱい削除しないといけなくなる気がします…)

売れてない噺家のファンにとって、売れるまでは「身近な噺家(小さい会では少し親近感が生まれる噺家)」だったのに、メジャーになると「常に皆から好かれる噺家or憎めない噺家」になります。いわば売れてない噺家は「自分がプレミアムなお客となれる噺家」ですが、売れると「噺家本人がプレミアムな噺家」という風に変わります。ちょっと性質が変わってしまうのです。

当然、メジャーな噺家さんは高座での影響力が増えますので、「負け犬の遠吠え」の量が減ります。強者ですから。ですからメジャーな噺家さんは「メジャーだからこそできる笑い」もあるものの、「メジャーだからできない笑い」も増えるかと思います。ホンマ大変やろなと思います。ある意味、噺家は売れてなければ売れてないだけ、好き放題言える強みがあるのかもしれません。

落語家の暴露本は平家物語

そう言うと、落語家の暴露本で、著者が「エライ目にあった話」は、「平家物語」みたいな気はします。あくまで著者が敗者(被害に遭った側)と認識できると、そういう風に感じます。

しかし、しばらくすると、勝者側やそれに近い人が

①「暴露本で金をとって、商売にするのはおかしい」
 とか、
②「暴露本を書くのは、品が無い」

と言う意見を出します。これは果たして、どうなんでしょうか???
負けた側は常に泣き寝入りしとかないとダメなんかというと、そうでない気がします。何となく違和感があるので、上記の①や②に対する違和感について分析してみます。

①暴露本で商売をするのはおかしいのか???

「金儲けのために人を貶めるとは何事だ!」という意見かもしれません。
しかし、昔は、敗者側としては、SNSやブログなどのネットツールもありませんし、「敗者側から見た真実」を世に出したいと思うでしょう。
そうなると、昔は「書籍」が世間に伝える唯一の対抗手段になったと思います。

当時、世間に伝える手段としてそれしかない状況で、「金儲けのためにするのは良くない!」「商売にしてるのはけしからん!」と言われると、敗者側へは「泣き寝入りしておけ」ということにしかならないと思います。
(また、書籍の売上があったとして、基本は「暴露本を出さなければ一定の関係を持っていた人」から貰える収入が減るのです。デメリットやリスクを抱えてるとも言えます。大きく見れば売上よりマイナスの状況も考えられますし・・・)

では、その「書籍の売上」を全額どこかへ寄付していたら、その人は納得するのでしょうか???

あるいは今なら当然、ブログやHP、メール、SNSなど「無料・収益無し」で発信することが可能です。誰かにエライ目に遭ったことを告発する時に、「書籍化」しなくても世間に拡散できます。もっと不特定多数に伝えられます。そういう風に、SNSやネットなどで「収益無しで情報拡散」をすれば、その人は納得するのでしょうか???

→なんとなく、別の理由を考えて、結局「ダメ!」って言いそうです(笑) その時、繰り出される「ダメな理由が次の②」です。
(※おそらくこの発言をする人は「告発者を貶めたいだけ」な気がします)


②暴露本を書くのは、品が無いのか???

まあ、これについては事実上、「好き嫌い」の話かと思います。
品のあるなしは、「上等な人間か、下等な人間か」という話ですが、結局、ここは主観的な評価です。

ただ当事者でない多くの人にとっては意外に暴露本を書いた人のことを「品がない」と思うことは少ない気がします。
単に「面白い」と思う人だけやなしに、「そんなこともあったのか」「そら書かないてられへんわな」と言う人もいると思います。

もちろん勝者側としては、悪く書かれるのですから面白くないと思います。しかし、本にすることがなぜ品が無いと思うのでしょうか。。。実はそれが局地的には「強者と弱者が入れ変わってる」からです。
正確には「その被害が勝者に目に見える」からです。

本による被害が勝者の目に見えて無い場合は、勝者は「大人物の余裕(強者の余裕)」を見せることができますが、しかし、本による被害が目に見えた場合は余裕を見せられないのです。もっと言えば勝者本人はともかく、勝者の恩恵を受ける関係者や近親者は、その被害が大きくなります。

わかりやすく言うと、勝者がA師匠で、敗者のB師匠が暴露本を書いたとします。しかし、A師匠の弟子連中(=Aの関係者)は「勝者本人」ではないので、恩恵は最初からなかったりします。すると暴露本によって、「A師匠の弟子連中」は肩身の狭い思いをします。こうなると、「A師匠の弟子連中」は弱者であり、この人たちにとって、暴露本を書いたB師匠は強者となります。

ですから、勝者と敗者の勝敗&強弱は変わらなかったとしても、勝者の関係者(勝者の弟子)と著者の間では、著者が強者で、関係者が弱者になってしまいます。そうなると勝者の関係者にしてみれば「強者の余裕」を見せるべきは、その著者であり、「そんなことを書くのは、我々をいじめてるだけではないか!」と言うことになってしまいます。
(A師匠の弟子連中からすれば「B師匠は我々より強いのだから、強者の余裕として暴露本を書かなければ、我々は苦しまなかった」という話になります)

また平家物語の時代と違い、現代は情報の伝播が速いので世論(世間)が味方になるのが早いです。
敗者が本を書いてるときは「確実な弱者」なのに、読者が増えだすと著者側がどんどん「強く」なっていきます。当然、ある状況においては、強者と弱者が入れ替わってしまいます。また「クローズドな場での内緒話」ではなく、公に出された情報なので、勝者は行く先々で「局地的な弱者」になる可能性も出ます。
(A師匠は、公演先でその本の話題が出ると困りますし、A師匠の弟子連中はもっと深いな思いをします。)

おそらく「品がある」というのは、「強者のたしなみとして、弱者イジメをしない」ということだと思います。暴露本は勝者と敗者が存在します。大局的には著者は敗者=弱者なので「執筆せざるを得なかった」のですが、勝者の関係者(弟子等)からすれば、自分たちが弱者で著者は強者に感じるので、「著者は品がない!」という風に見えます。

結局のところ、これが一部の人が「品が無いから暴露本はダメ!」と言う理由な気がします。

ですから、今の時代においては暴露本を書くことは、那須与一が50歳の男を射ったように、「よくやった!」と言う人もあれば、「情けなし(こころなしことを…)」と言う人も出て来るということです。

ただ、暴露本(暴露記事)の中身においては、基本は「勝者と敗者」が決定されます。一部の関係者にとって「著者が強者」になったとしても、「著者が敗者」であることには変わりはないです。勝敗と強弱は別で、強弱は比較でしかないですから。
ですからやはり、著者が被害を被った暴露本は、「平家物語」的なエンタメ要素が出て来るのかとも思います。


【おまけ】

以下、暴露本の具体例をちょっとだけ挙げて、少し触れておきます。

今回、核心部分は「無料部分」に書いていますので、以下の「有料部分」はそんな濃い情報は無いです。どちらか言えば、私の「本当に軽い気持ち」を書いております。ご興味のある方のみ、ご購入下さいませ。

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