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介護業界のド素人だった男が、4年間で1億4000万の債務超過を解消し、沖縄の介護業界の異端児となるまで

「この会社の理念や行動指針は、全部僕の人生経験から生まれているんです」

そう話してくれたのは、沖縄で介護事業を営む、株式会社リンクスの代表取締役を務める與那城将さんだ。2023年、株式会社リンクスは沖縄で介護事業をはじめて10周年を迎えた。

「介護業界は給料が低いし上がらない」

なくてはならない仕事をしているのに、介護の現場で働く人が豊かな生活をおくれないのはおかしい。介護のド素人だった與那城さんが、介護事業に携わり始めた頃に感じたことだ。

一時は1億4000万円もの債務超過を抱えていた会社を立て直し、介護業界での新たな取り組みを始めるなど、敏腕経営者を彷彿とさせる與那城さんだが、実は大学時代に3回留年を経験し、中退した過去を持つ。

若かりし頃、“ダメダメな生活”を送っていた彼は、どのようにして現在のような経営者となったのか。

そして、経営理念である「自他を認め成長し利他の心で動く 豊かな心で共に生きる」や「直接伝える」「傾聴と承認」「否定しない」「感謝と謙虚」などの行動指針に表れる、他者肯定や傾聴、利他などの価値観を大事にするようになったのはなぜなのか。

彼が歩んできた人生から、この答えを探っていきたい。


“天才”だった幼少期

 與那城さんは1986年8月6日、沖縄県の那覇市で誕生し、父・母・妹・弟の5人家族の長男として育った。

測量士の資格を持ち、区画整理の仕事を10年ほど経験した父は、株式会社リンクスの前身となるイン・リンクを起業するまでの間、高校教諭をしたり中古車販売をしたりとさまざまな仕事に挑戦していた。

父方の祖母は、家族を大事にする文化が色濃いとされる台湾出身で、その影響か日常的にハグをするような愛情表現豊かな環境で育った。父は長男の與那城さんを厳しく育てた。殴られることもあったが、その後ハグをして話してくれる父の愛情を感じていた。看護師をしていた母はとても穏やかな人で、父と同じように家族を大切にしてくれた。

幼少期

「両親は40代になっても一緒にお風呂に入っていて、本当によい関係性でした。もしかすると、今も一緒に入っているかもしれません(笑)。家族仲も今も変わらず良好で、弟や妹が会社の経営も助けてくれています」

 鷹揚な両親のもとで伸び伸びと育った與那城さんは、小さいころから自己主張を臆さずできる性格だった。小学校では、6年間学級委員長を務めた。自らが立候補していたわけではなく、周囲から「将がやったらいいんじゃない?」と推薦されての委員長だった。

勉強も得意で、全国テストでも上位を獲得していた。「この時がピークだったかもしれないですね、自分で言うのもなんですが天才でした」と與那城さんは笑う。

 当時の夢は、医者になること。鍵っ子だった與那城さんは、家の鍵やお小遣いをもらうためによく母の働く病院を訪れていた。それで医療が身近になり、かつ勉強も好きだったことから医者を目指すようになったのだ。

小学6年生の夏から勉強を始めて、沖縄でもっとも偏差値の高い中高一貫校に合格。入学後も学年で10位程度と好成績を収めつつバスケ部員として部活にも励み、充実した学生生活を送っていた。

しかし、中学2年生の頃から成績がガクンと落ちて、下から数えた方が早いような状態になってしまう。勉強についていけなくなったのかと思えば、そうではなかった。はじめての恋人ができたことで舞い上がってしまった與那城さんは恋愛に夢中になり、勉強が手につかなくなってしまった。

文武両道の優等生だった與那城さんの初恋は、中学2年生から約10年間続くーー。

ご両親と

遊びまくっていたら3度の留年 

 大学進学では、医学部を受験するも不合格。それでも医者への夢を諦めきれない與那城さんは、合格した地元の大学に通いながら医学部を目指した。いわゆる仮面浪人だ。

しかし二度目の受験も上手くいかず、当時、交際していた相手が山梨の大学に通っていたこともあり法政大学の生命科学部生命機能学科に進学した。

もともと人とのコミュニケーションが好きだった與那城さんにとって、生まれ故郷の沖縄を出て、広い地域から人が集まる大学で多くの人と出会うことは刺激的であった。新設されたばかりの生命機能学科では「これからみんなで作っていこう」との前向きな雰囲気もあり、與那城さんは学校の外での学生生活を謳歌した。

勉学よりも遊ぶことに夢中になった與那城さんは、大学3年生になるはずのタイミングで留年してしまう。

中高一貫校に通っていた頃から奨学金の支給を受けていた與那城さん。父から「しっかり勉強して、将来働いてお金を返すように」と言われていた。それなのに……大学では、無利子の第一種奨学金と有利子の第二種奨学金の支給を受けていたが、留年により第一種の支給が停止されてしまった。

奨学金の支給が停止されたことで「さすがにまずい」と危機感と反省の念を覚えた與那城さんは、なんとか大学を卒業しようと勉学に真剣に取り組み始めた。

ここで流れが変わるかと思われた……が、思うようにいかないのが人生だ。

 ある日、大学間の交流の一環として法政大学に招かれていた北里大学の教授の講義に興味を持った與那城さんは、北里大学薬学部のラボで研究を行うことを決意した。もともと医学部を目指していた與那城さんは、ラットの遺伝子操作に関する研究に夢中になった。「今度こそ進級できる」と思っていた矢先、驚きの事実が発覚する。

與那城さんは、北里大学での研究も法政大学での単位として認められると認識していた。しかし実際にはそのような制度は存在せず、進級に必要な単位を取得できないことがわかったのだ。結果として、人生三度目の留年が確定してしまった。

中高一貫校時代

きっかけをくれた父の一言

 三度目の留年ともなると両親に告げることもできず、これからどうしていこうかと、ひとり途方に暮れた。

2011年3月11日、東日本大震災が起きた。東京で心細さを感じていた與那城さんは、父に留年したことを伝えた。

「震災もあったし、帰っておいで」父は暖かい言葉をかけてくれた。

 帰郷した與那城さんは、イン・リンク株式会社に入社した。與那城さんが中学3年生の時に父が創業した同社では、当時父を代表とし、マンスリーマンションの運営およびバイクの貸し出しを行っていた。

そして與那城さんが入社した時期は、職業訓練校の運営という新しい挑戦を始めるタイミングでもあった。社員として数カ月、現場の仕事に携わった與那城さんは、取締役に就任する。

取締役といってもやることは地道な業務であった。チャンスをくれた父の期待に応え、リンクスの新しい事業を成功させようと、手取り13万円で職業訓練校のサブ講師として、6時から22時まで週6日働いた。

天才と呼ばれた少年時代を経て、大学では3度の留年を経験。大学を中退し家業に入った與那城さんは、当時の自分をこう振り返る。

「好き勝手に生きてきた自分に『帰ってこい』と父が言ってくれたことが本当にありがたかったです。幼い頃の自分は、できない人の気持ちがわからなかったんです。『なんでできないの?』って悪気なく人に言ってしまうような人間でした。でも、恋愛に夢中になり、勉強もせずに遊びまくって留年や中退も経験して、人には怠けてしまうことやできないことがあるんだとわかったんです。だいぶ寄り道をしてしまったんですが(笑)自分の人生には必要な経験だったなって思います」。

介護事業との出会い

 2013年3月、株式会社リンクスは、後の中核事業となる「介護事業」をスタートすることになった。この介護事業スタートの背景には、與那城さんの父の思いがあった。

「82歳を迎える自身の母が安心して入れる施設を作りたい」
「身体に不安がある高齢者に安心、安全、安価で住める環境を提供したい」

25年間看護師として働いていた與那城さんの母が代表として事業をリードするなか、介護の知識も経験もない與那城さんは、介護職員初任者研修の資格を取得すべく講座に通うことになった。

この資格取得講座で與那城さんは運命の出会いを果たす。
後に、與那城さんと共にリンクスを支える存在となる、みゆきさんと出会ったのだ。

ひと月同じ場所で勉強していたにもかかわらず話したことはなく、初めて言葉を交わしたのは講座の終了後の懇親会の場だった。その日は偶然みゆきさんの誕生日。たまたまそれを耳にした與那城さんは、「プレゼントを買いに行こう」と思いつく。感情表現豊かなみゆきさんのことが気になっていた與那城さんは、自分でも驚くほど積極的な行動に出た。

「近くの雑貨屋さんでアロマディフューザーを買ってきて渡したんです。よく考えるとだいぶ変ですよね。よく妻とも『話したこともないのにプレゼントを渡すって、今思うとちょっと気持ち悪いね』と話しています(笑)」。

このプレゼントがきっかけで食事に行くようになり交際がスタート。
その年の8月には結婚に至った。

結婚当初の與那城さんとみゆきさん。與那城さんの20年来の親友と共に撮影

「妻との対話」から生まれたリンクスの行動指針

 論理的に話を進めるタイプの與那城さんは、自分の考えをまっすぐに伝えてくるみゆきさんに、「自分にはないものを持っているひとだ」と惹かれた。出会いから5ヶ月というスピードで入籍したこともあり、結婚当初は衝突することも多かった。

印象的だった妻の言葉がある。
「将は私と話すことを諦めないで。将が諦めたら私たちふたりは終わるから」

自身の気持ちをうまく言語化することが苦手だったみゆきさんは、與那城さんと言い合いになると、黙り込んでしまうことがあった。当初は苛立ちを覚えていたが、みゆきさんの言葉をきっかけに「ふたりの会話のルール」を作ることにした。

 お互いの価値観の違いにも頭を悩ませていた與那城さんは、ある時父に「もうダメかも」と相談を持ちかけた。父は「いろいろあるだろうけど、赦してみたら」と一言だけアドバイスをくれた。経営者としてさまざまな経験を持つ父の言葉は、與那城さんの心に深く響いた。

「相手を否定せず、まず相手のことを認めることが大切なんです」と與那城さんは語る。

相手を認めた上で話を聴くことで、ふたりの間に「信頼」と「尊敬」の気持ちが生まれてきたという。結婚当初、喧嘩の絶えなかったふたりは、少しずつ対話を重ね、互いを認め合える関係を築いてきた。「傾聴と承認」、「否定しない」など、現在のリンクスの行動指針の一部は、妻みゆきさんとの対話を通して生み出されたものだ。

妻みゆきさんと

介護業界の職員の給料を上げたい

 結婚生活でぶつかった壁の前で模索を続けていた頃、仕事においても、與那城さんは「ある壁」にぶつかっていた。

それは、事業や施設を拡大しても、介護業界の構造上、を知らなければこのままでは収益の向上を上げることが難しいという事実であった。

 リンクスが介護事業をはじめた当時、沖縄の介護事業者の99%が「有料老人ホームとデイサービスを組み合わせた経営」を行っており、リンクスもそれを踏襲する形で事業運営をしていた。しかし介護保険法や業界の仕組みを知るなかで、「有料老人ホームとデイサービスを組み合わせた経営」では、いくら施設を拡大しても、介護報酬加算などの仕組み上、社員に支払う給料を増やすことができないということがわかった。

当時、沖縄県内の求人誌にある介護事業所の日中勤務の月給はどこも14万円程度。介護業界の給料が低いと言われる所以は業界の構造にあったのだ。

入居者の「安心、安全、安価」を実践するために頑張っているのに、そこで働く職員たちの給料を上げることもできないことに、與那城さんは憤りを感じた。

 2016年、この頃から会社の運営や事業計画に携わっていた與那城さんは、この課題を解決するため、デイサービスから訪問介護への方針転換を決断した。

デイサービスから訪問介護へと方針切り替えることで、デイサービスに来ることもできず、有料老人ホームに入ることもできない「重度の要介護者」の居場所も作りたいと考えていた。

 訪問介護への取り組みにより、職員の安定的な処遇改善を図るために創設された「処遇改善加算手当」の加算率が高くなり、結果として、職員の給与の増額に充てることができるようになった。與那城さんの知る限り、当時の沖縄で訪問介護に取り組んだのは、初の試みだった。

新しい取り組みに反発する同業者やケアマネージャーも現れ、役所にリンクスに関するよくない情報を連絡されるなど嫌がらせを受けたこともあった。ある日突然、役所から施設に指導が入った。どよめく現場の職員たちをなだめながら、なんとか対応を終えた與那城さんは、この時、新しい取り組みを進めることへの意志を試されているように感じた。

「誰かがやらなければ沖縄の介護は変わりません。従来のやり方を続けていては、介護施設の経営は厳しくなる一方です。これまでも事業をたたむ同業者をたくさん見てきました。そうなると、高齢者が多い地域なのに、高齢者が安心して暮らせる施設が、沖縄からどんどん消えていってしまうんです」

與那城さんは、リンクスから沖縄の介護業界を変えていこうと心に決めた

「自分がやるしかない」自ら決めた代表就任 

 2020年、33歳の與那城さんは、株式会社リンクスの代表に就任した。
代表を務めていた母親が、軽度のうつになってしまったことがきっかけだった。当時のリンクスは、1億4000万の債務超過を抱えており、合計5億円の融資も受けていた。

先述の通り、母が代表を務める頃から事業づくりに取り組んできた與那城さんは、「代表をやれるのは自分しかいない」と手を挙げた。

父は與那城さんに、代表に就くための条件を提示した。
「誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰る」ことを父に約束し、與那城さんは代表に就任した。もし会社が傾けば與那城さん一家がその借金を背負うことになる。

與那城さんは、覚悟を決めて経営の回復に臨む。

 まず、介護業界は「介護保険法」が3年に一度改正される度に、売上が変動する不確実性の高い業界だ。改正内容が正式に決まる前から少しずつ国から情報も出てくるが、それでも準備できる期間は8ヶ月ほど。その短い期間で、会社の対応を法律に合わせて変容させなければ、途端に売上が下がってしまうこともありうる。代表就任前から與那城さんは「介護保険法」についても学び、3年おきの法改正に対応することで会社の売上を支えてきた。

母が代表の時から、自身も会社運営に携わっていたにも関わらず、債務超過を起こしてしまったことに責任を感じていた。

父と一緒に

会計を学び「数字の背景」を伝える 

 代表となった與那城さんは、これまでまったく関わってこなかった会計にも着手した。莫大な債務超過に陥ったことで、会計の重要性を感じたからだ。もともと数学が得意な與那城さんは本を読みあさり、独学で会計を学び策を打った。

 債務超過の解消に向けて、経費の公私混同を一切なくした。與那城さんが代表を引き継いだ時のリンクスの売上は7億ほど。家族で食事に行った際にも仕事の話だけをしていれば経費として処理してしまうなど、どんぶり勘定で経理が行われていた。

「経費の公私混同をなくす」ことは当たり前だが、家族経営を行う会社では曖昧なところも多いのではないか。みゆきさんの発案により、会社カードの使い道や役員報酬など、お金に関わるすべての情報を社員に開示するようにした。こうした透明化によって社員からの信頼を集めるようになった。

 それと同時に、人件費率の適正化も図った。人員配置の再考や経費削減を遂行し、現在は年に2回支給できている賞与も、債務超過を解消するために職員に頭を下げてゼロにした。

もちろん、社員からの反発もあったが、「利用者の低料金を実現し、社員の収入を上げるためには、利益を上げて経営状態を改善する必要があること」を粘り強く伝えていった数字は大切だが、そればかりを言っても社員はついてきてくれない。

「数字の背景を伝えることが一番大事なんです」と與那城さんは語る。

 現場の社員たちへの伝え方にも工夫を凝らした。最初は與那城さん自身が直接現場に出向いて思いや考えを伝えていたが、よりスタッフとの距離が近い施設長や管理者が伝えた方が理解を得やすいだろうとのアイデアから、管理職向けの勉強会や対話を通じてまず彼らに自身の想いと考えを伝えた。その上で、管理職から現場の職員たちに伝えてもらう方法に変更した。

この取り組みにより、管理職の数字や売上に対する当事者意識が育まれ、経営の追い風となった。現在行っている管理職を育成するための「8週間プログラム」は、この取り組みからヒントを得たものだ。

コロナ禍の逆風も乗り越えて、4年目に成し遂げた黒字化

 債務超過に陥っても尚、與那城さんは「利用者には安価で、職員の給料は高く」という信念を貫いてきた。その理由は、どんなに会社の業績が上がろうとも利用者や職員の暮らしが豊かじゃなければ、事業を行う意味がないと思っていたからだ。

與那城さんは、若い社員をどんどん取り立てた。自身が代表に就いたことで、ポジションや役割が人を成長させることを身をもって感じたからだ。現在、幹部の大半は30代だという。子育て世代でもある彼らに対して、子どもたちを養うための給料をきちんと払える体制の整備にも力を入れてきた。

「僕の報酬は債務超過を解消するまでの間、生活に必要な最低限の年間360万円に設定していました。でもその時も社員の給料を減らすことは考えませんでした。むしろどんどん上げていたので、社員の6〜7割は僕より給料が高いような時期もありました。その姿を社員は見てくれていて、ついてきてくれたのかなと思います。債務超過を乗り越えた時に、経営指南をしていただいてる方から『代表の給料が低すぎると社員にとっても夢がない……』と言われ、今は僕の給料も上げています(笑)」

 こうした試みの結果、1年目になんとか約1000万の利益を出した。このまま2年目はさらに利益を出そうとアクセルを踏んでいた矢先、コロナ禍に見舞われた。本来は2年目での債務超過解消も目論んでいたが、結果的に利益は2000万円ほどの着地になった。事業所内でクラスターが発生し、2ヶ月ほど新規入居者を受け入れられなかったのが大きな痛手となったのだ。その期間は、受け入れが可能になった時のための種まきに取り組みながら乗り切ったという。

そして3年目には約8000万円と利益を格段に伸ばし、4年目の2023年には見事債務超過を解消した。

 代表就任前から自ら主導し取り組みはじめた「訪問介護」にも、手応えを感じている。当初は反発の嵐だったが、2年ほど前から賛同してくれる人が増え始めた。リンクスが重度の要介護者の居場所を作っていることに意義を感じて、連携体制を取ってくれるケアマネージャーが何人も出てきたのだ。

職員の給与水準においても、訪問介護へ転換する前に比べて、大幅に向上することができた

周囲の助けがあったからこそやってこれた

 経営も介護もド素人だった與那城さんが、多額の債務超過という危機を乗り切り黒字化を成し遂げられたのは、なぜだったのだろう。

介護業界の構造を学んで事業方針の転換を図った。
会計を学び会社運営を行う上での数字にも強くなった。
でも、「それだけでは今のリンクスを築くことはできなかった」と彼はいう。

社員の協力はもちろん、外部からリンクスを応援してくれる人からも大きな助けを得た。

 たとえば、同じ介護業界で会社を経営している前泊さんだ。先述の通り沖縄の介護業界に新風を吹かした與那城さんのことを「介護業界の異端児」と評価してくれる。與那城さんの新しい挑戦を見守り応援してくれる「第二の親父」のような存在だ。

ふたりは4年ほど前に飲み会で知り合った。その飲み会の途中、與那城さんは「子どもを寝かしつけないといけないので、一旦抜けてまた戻ってきます」と中座した。前泊さんは「戻ってくると言うだけで、一回帰ったらまた出てこないだろう」と思っていたが、與那城さんは本当に戻った。

「この時僕が飲みの場に戻ったことを『素晴らしい』と言ってくれて、そこから付き合いが始まりました。口先だけではないと認めてくれたのだと思います。去年のリンクスの介護事業開始10周年記念イベントで乾杯の音頭を取っていただいたのですが、その時にもこの話をしてくれたくらい印象的だったようです(笑)」

ほかにも、事業経営を通して業界を超えた経営者の方たちとの繋がりが、與那城さんを支えている。

 そして忘れてはならないのが、妻みゆきさんや両親のサポートだ。リンクスの経営を通して多くの人に出会い、たくさんのことを学んだ與那城さんは、介護事業を立ち上げてくれた両親への感謝を忘れることはない。また、債務超過の真っ只中で代表に就任した與那城さんを、会社に入って支えてくれた妻みゆきさんの存在なくしては今の自分はないという。

「バカなこともたくさんしてきたんです。そんな僕をみんなが助けてくれました。『一人で生きているんじゃない。自分が今まで生きてこられたのは、周りの人たちのおかげなんだ』と思えたことで、人のために何かをしたいと思うようになりました。この経験が、経営理念にある『利他の心で動く』ことや行動指針の『感謝と謙虚』につながっています」

幸せな人を増やすために事業を拡大したい

 與那城さんには、リンクスの経営を通して成し遂げたいことがある。

僕はこれまでの人生で、価値観が違う者同士がたくさん会話をしてお互いを認め合うことで、信頼と尊敬の関係が生まれるし、そうした関係性の人とともに居られることが心を豊かにすると身をもって学びましたその豊かさをもっと多くの人に広げていきたいです。リンクスの事業を拡大するのも、そのためなんです」

與那城さんは、これまでの人生から学んだ「幸せに生きるために大切なこと」を言葉にすることで、「理念」や「行動指針」をつくってきた。事業を拡大することでリンクスの「理念」や「行動指針」に触れる人が増え、豊かに暮らす人を増やしていきたいと考えているのだ。

「豊かに暮らす」とは、決してマインドだけの話ではない。

「入居者の料金は県内一安く」「職員の給与は県内一高く」を掲げ、それを実現するために業界構造を熟知し、日々新しい情報にもアンテナを張りながら、與那城さんは事業経営を行っている。

“介護業界の異端児”は、事業拡大に向けてこれからどんな打ち手を講じていくのか、今後の動向を楽しみに追っていきたい。

                            

       インタビュー・執筆|えなりかんな
         編集|サオリス・ユーフラテス



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