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言葉

はじめに

私が関西にいた時にお世話になったトレーナーの方が二人います。
勝手に日本を代表する凄腕トレーナーと思っています。
二人とも表に出ることに全く興味がないので広く認知はされていませんが
凄すぎる人たちです。

私がまだトレーナーになっばかりの頃、一緒にセミナーを受講しましたが
講師の方から「教えることがありません。私が〇〇さんから学びたいです」と
言われていた程です。

今日はそんな二人のトレーナーのうち一人が語っていた「言葉」についての内容です。
最近「言葉」に関する投稿をちらほらしていたので興味のある方はご覧ください。

言葉=自己研鑽の道具



「言葉」の役割といえば他者とのコミュニケーションツールとして意識されることが多いと思います。

学校でもその辺に重きをおいて授業がなされていた気がします。(あんまり聞いていませんでしたが。)

そもそも言語を学ぶとき単語や用法?などに共通の認識を持てているかどうかで正誤の判断がなされます。
他者と情報や意見交換をするために共通の認識は重要なので当然のことといえば当然なわけです。

ですが、個人的には「言葉」の役割といえば

「自己研鑽の道具」としての方が人生において重要だったと思います。(いまのところ)

思考するときに言葉を使う。
自身での情報の取得、分析、整理、考察などに使うということ。
以前に投稿した議論の99%は自身とすべきというところと重なる部分がありますが
言葉に対して思考する時に必要な事と、他者とのコミュニケーションに必要な事は当然変わってくる。

ここで言語に対する共通の認識というのは実は自己研鑽の道具としては意味がない。

日本語とか英語とかですらある必要もない。
もちろん母国語であるほうが効率は良いし、伝える時に確立された言語である方が良いのでうまく使えばいいわけですが、
自分で言葉を考え出してオンリーワンの言語を使ったとしても実は自己研鑽の道具としては問題がない。

つまり単語の意味を間違えて覚えている程度のことは自分で使う分にはなんら困らない。
他者とのコミュニケーションに困るのと、日本語という言葉の習熟度で言えば意味を間違えて覚えることは勿論良くないわけですが、思考レベルとは関係がない。

自己研鑽の道具として言葉を使う時に必要な事は、自分の頭で情報を扱う時にどれだけ正確に管理できるかということ

ようするに、そこそこに「日本語のようなもの」を習得した後に、必要なことは
言葉を使って情報を正確に管理する能力を身につけること。
ここからは難しい問題ですが、自己矛盾などが考えの至らなさで起こるのか、言葉の扱い方が上手くないから起こるのかはっきりしなくなってくる。
考えの至らなさが言葉の扱いの発達を止めてしまうので同じようなことなんですが
特に他人から見てその辺の問題がどこで起こっているのか判断するのには時間がかかる。と感じている、特に大人相手には。

そして自己研鑽の道具として言葉で情報を出来るだけ正確に管理することは
誰も教えてくれないから自分で鍛えるしかない課題、少なくとも自分が生きてきた課程ではそうだった。この現状は良くないと思うが。

アウトプットはその後の話。
自分の中で情報がどうなっているかわからないのに正しい日本語をとか、アウトプットを上手くやるとか、他者とのコミュニケーション能力をとか上っ面だけ上手くなっても仕方がない。
日本語に長けていて、会話が上手でも、そもそも伝える価値のあるものがあなたの中にあるのか?

特に子供に対して、何を重視して、何を注意して、何を伝えるか

答えはないんだろう

でも
子供は勝手に育つとか、他人を変えることはできないとか
勘違いも甚だしい

言葉を手にした動物は、他者への影響力を手に入れた。
その価値と責任を感じながら人(特に子供)に接することができるかどうかだろう?

例えば、何か人付き合いとか会社で不満やトラブルがあったその時に

「(いつでも)変えられるのは自分だけ」
と考えている、もしくはその言葉を他人に発する人と

「(いま)変えるべきは自分」
と考えている、もしくはその言葉を他人に発する人

全く違うわけです。いろんな意味で。
言い聞かせているだけでなく本心でそう思っているとしたら、天と地ほどの差がそこにはある。
これが子供の相談だとしたらどちらの言葉をかけるかで、その子の人生は確実に大きく変わっていく。

(一回だけの話ではなくて、どういった考えに基づいた言葉をかけ続けられるかでという意味。)

長くなりましたが何が言いたいというと
(完全に私個人の主観)

専門的な能力全般に言えるとは思いますが
特にここでは、私の経験からトレーナーや治療家の能力って
実は言葉に対する考えの足りなさが問題になっていると感じているのが5割以上
二人に一人以上の人がではなく、伸び悩む理由の締める割合が5割以上、関わった人に例外なく。

それから教育に関して大人は、「言葉の扱い」と「言語」を学ぶ違いをよく考えるべきではないのかということ、子供の段階と将来を考えてどうしていくか決めないと

スネ夫の嘆き



コミュニケーションツールとしての言葉について考える際には
他者と完全に共感することは不可能であると言う認識をお互いに持つことが大切だと思う
そしてその認識のズレをお互いに擦り合わそうとする気持ちをもてば
トラブルの多くはそれだけで未然に防げそう

誰かから、もしくは書物から何かを学ぼうとするときも同じで
伝える側は出来るだけ誤解が起こらないように努力し、受け取る側は出来るだけ汲み取ろうとする。
それでも100%のやりとりは出来ない。

そもそもある単語に対して100%共通の認識を持つことはできない
何故なら関連知識の違いや経験値の違いからその言葉を聞いて想起されることが違うから

例えば体の話を使って考えてみましょう

多くの方が経験したことがあると思いますが、何かをした後、翌日などにスネの筋肉が痛くなった経験はありませんか?もしくは誰かがそう言っていたのを聞いたことはあるでしょうか

そのスネの筋肉が痛くなる状態を「スネ夫の嘆き」と名付けましょう(使いすぎによる遅発性の筋肉痛とします)

そして極端にいきましょう
「スネ夫の嘆きについて理解できたら体に対する考え方に必要なことはほとんど網羅されてるよな、全学生が卒業までに理解してたら医療業界かわりそう」
と言われて

「いや確かにめちゃくちゃ深いもんな」
と思う人もいれば
「その程度の知識で何を大げさな」
と思う人もいれば
「特定の分野においては確かにそうかも」
と思う人もいれば
「いや意味がわからん」
と思う人もいる

もちろんその人の考え方などもあるので、意見が人それぞれであることは問題がないわけですが
そもそもスネ夫の嘆きに対する認識が違うことによる意見の違いであるとしたらどうでしょう

この場合は認識の違いによる影響を大きく受けていそうです。
ということは、そもそもコミュニケーションが十分に成立していない。

「スネ夫の嘆き」についての認識を少し変えていきましょう

そもそもスネの筋肉で痛くなる可能性のあるものは一つではありません。
ここでは、前脛骨筋と、長指伸筋の可能性があるとしましょう。
この時点で、どこどこの筋肉が痛くなったと言われたら確認する必要があるということを知ることができます。

さらに前脛骨筋と長指伸筋は役割が違い、つま先をスネ側に近づける動きをする際に親指側を持ち上げるのが前脛骨筋で、その他の指側を持ち上げるのが長指伸筋。
この筋肉のどちらかが痛くなっている場合、例えば歩行で痛くなったとしたら進行方向に対してつま先が内側か外側かに向いていた可能性がでてきます。
ここでは、痛みを発している筋肉を知ることでどのような動きをしていたかの推測がたつことを知れます。

二つとものの筋肉が痛い場合は、足の向きには問題がなかったのかも知れません。
ですがどのパターンであったとしても、後ろ側の筋肉が働かないことで、前側の筋肉に負担が寄った可能性もあります。
後ろ側の筋肉の状態がどうなのかを確認する必要があります。
ということは、筋肉の状態を把握する術を持っていなければならないことに気づきます。

もし左足だけが痛くなったのであれば、左足側に強く体重をかけていたのかも確認しなければなりません。
左側に体重をかけていたのであれば、それが何によるかたよりなのかを探る必要があります。
その理由の何割かは、頭頸部での脊髄圧迫によって右半身の筋力が落ちていたからかも知れません。
もしくは上半身の筋力が落ちていないのであれば、腰部や臀部あたりでの坐骨神経の圧迫くがあるかもしれません。
神経は圧迫されただけでは基本的に痛みも痺れもなく筋力が低下するので、本人に痛みやしびれを聞いても答えが返ってこない可能性が高いことを知っておかねばなりません。逆にしびれなどがあれば、問題はそれだけではないかもしれないということ。

それから就活などで革靴を履いて歩いたらスネ夫の嘆きを訴える人が多い
これは普段履き慣れない靴で、踵を地面に強く当てることで、足首が底屈され、それをこらえるために筋肉痛になる。
このことから普段履いている靴によって足の設置位置が変わるのかもしれないということまで想いを馳せることができる。
革靴を履きなれるとスネ夫が嘆かなくなるのは、果たして負荷に対して慣れたからなのか、負荷が減るように歩き方を体がかえたからなのか?検証せずに答えを決めつけてはならないということも学べるし教訓になる。

他にも力学的なことや、足先の向きが膝からなのか、股関節からなのか、骨盤が回転しているのかなどによって、痛くなったスネの筋肉が同じでも体全体の状況は人によって違うことなど

とこんな感じで挙げだしたらまだまだありますが、
スネ夫の嘆きについて理解を少し深めようとしただけでも関連知識が沢山あり、体に対する考え方にも多数触れることができます。

ひとまずこれを知った上で、先の一文
「スネ夫の嘆きについて理解できたら体に対する考え方に必要なことはほとんど網羅されてるよな、全学生が卒業までに理解してたら医療業界かわりそう」
を読んだ時に、さっきと意見、感想がかわるのだとしたら、共通の認識を持てていなかったことによる弊害なわけです。コミュニケーションがうまく取れていない。
専門的な話だから認識が違うのは当然だと思うかもしれませんが、専門家同士で話しても全く食い違います。
そして日常よく使う言葉でもほとんど同じことが起こっていると思って良いと思っています。

スネ夫の嘆きについて語るだけでもまだまだありますから、これらをみなが同じ認識を持つことはできません。
ですが共有できる部分を少しでも増やそうとお互いが努めることでコミュニケーションを円滑にすすめることができるはず。

そして何かを学ぶ時、人からでも書からでも極力相手の意図を背景を関連知識を考慮して汲み取ろうとすることで、少しでも多く深く学ぼうとしないと、意外とコミュニケーションが取れてなかったりする。

あなたの日常にフィットネスを。

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